2/因果眩まさず・・・ユダヤ教キリスト教文化と日本文化の本質に迫る

1) 秘匿され続けたタルムード
      非ユダヤ人の財産はユダヤ人の所有物

2) タルムードの源流
      ユダヤ人が信じた神と人間の冷酷な関係

3) ユダヤ民族の宗教的呪縛と
      魂の理想とのギャップ

4) 日本民族が築いた文化の根底にあるもの
      神と人間と天地自然との一体感(一元論)

5) 神と人間の冷酷無慈悲な関係性は
      宇宙の理に適ったものか?


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前回は「マルクスの建前と本音」というテーマで書いた。マルクスの理論は根底から虚構であることを示し、その理論はあくまで建前であって、本音ではなかったと書いた。そしてその本音は「ユダヤ人の権力と財産の奪取」であったと断言した。その説をどのように解釈されるかは、このブログをご覧になるお一人おひとりの自由意思である。人が自由に創造したことが「原因」となり、それに相応しい「結果」が現実世界に現れてくる。この世界に起こることには、それに相応しい原因が必ず潜んでいる。原因のない結果は存在しない。「因果眩まさず」だ。『無門関』第二則に「百丈野狐(ひゃくじょうやこ)」なる公案がある。五百生野狐身に堕した老人に対し、百丈和尚「不昧因果(ふまいいんが)」(因果くらまさず)と一喝し、野狐身を脱せしめたとある。キリストは「誠に汝らに告ぐ、天地の過ぎ往かぬうちに、 法律(おきて)の一点、一画も廃ることなく、悉く全うせらるべし」(マタイ5:20)と喝破しているではないか。その民族に降り注ぐ「運命」も同様に、必ずどこかにそれに匹敵する「原因」が潜んでいるはずである。この宇宙には「原因結果の法則」が歴然と働いていることが随所に観察できるからである。因果の法則の否定は、偶然の肯定であり、学問科学全般、智識の蓄積に対する無視であり、地球文明全体への挑戦を意味する。

さて、今回のテーマだが、マルクスをはじめとするユダヤ人の思想と計画が地球の運命を決するほどに影響力を与えていることは事実であるが、その多くは共産主義思想を始めとして世界全体を混沌とさせていることも事実である。なぜユダヤ人はこれほどまでに破壊と混乱を招くことを繰り返してまで、同胞の利益のためだけに奔走しうるのか? これを第二のテーマとしてみたい。できるだけユダヤ民族の深層に隠されている本質原因を明らかにしたいと思う。

ユダヤをテーマにした文献、ブログは極めて多い。様々な主張があり興味深いものも多いし、参考にさせていただいてもいる。現実のユダヤ問題を指摘するものが多い中で、ではなぜにユダヤ人はそこまでして策略を巡らし世界を相手取って戦いを挑むのか? その究極の謎に迫るものはほとんど見受けられない。勿論、具体的な事実の把握は、全ての問題を解決する上での第一条件であるから、まずそのことは最重要である。具体的なユダヤ人の問題を知りたい方は、まずはネットを検索して色々と研究していただきたい。しかし表面に現れた陰謀や策略が指摘され暴露され、それが故にユダヤ人をさらに攻撃、非難しただけでは、本質的な問題の解決には至らないのではないだろうか。孫子の兵法に「彼を知りて己を知らば、百戦して殆ふからず、彼を知らずして己を知らば一たび勝ち一たび負く、彼を知らず己を知らざれば、戦ふ毎に必ず敗る」とある。ユダヤの現象的事実関係の奥に隠された本質を知ることが極めて重要と言わざるを得ない。と同時に、わが日本民族の本質も同時に知らなければならないのである。その両方を知ることによって初めて、諸問題の根本解決の正しい方向性が見えて来るものと信じている。従って、ここでは日本民族の本質を学びつつ、ユダヤ民族の本質について考えたい。

かなり大上段に構えてしまったが、大丈夫かなぁ??


1)  秘匿され続けたタルムード
    非ユダヤ人の財産はユダヤ人の所有物


前回、ユダヤ人ラビの家系であるマルクスを例に出して解説したので、マルクス関連から入ることにする。マルクスの理論は「唯物弁証法」であり「唯物史観」であり「唯物論」であることは言を俟たない。ではなぜユダヤ人(ユダヤ教に改宗した人をユダヤ人という)であるマルクスが唯物論者なのだろうか? そもそもユダヤ教とは一体どんな教えなのだろうか? 敬虔な神を信ずるユダヤ教と唯物論との間に果たして関係はあるのか? また、ユダヤ人は拝金主義と見なされているが、なぜそれほどまでに、お金に執着するのか?・・・・疑問は深まるばかりである。

ユダヤ教は旧約聖書を聖典とし、キリスト教、イスラム教を派生せしめた由緒ある教えである(はずである!)。現にユダヤ民族が創作した「旧約聖書」は全世界の人々に親しまれている。世界で最も読まれている書物の一つと言えよう。それだけに人類に与える影響力も絶大だと言わざるを得ない。ところが意外と知られていないことに、ユダヤ教には「タルムード」という法典がある。旧約聖書+タルムード=ユダヤ教、旧約聖書+新約聖書=キリスト教、旧約聖書+コーラン=イスラム教、と書けば分かりやすい。新約聖書やコーランは他国語に翻訳されているので極めて認知度が高いが、タルムードはヘブライ語でしか書かれておらず、他国語への翻訳はタブーとされている。ヘブライ語以外に翻訳したとしても、既に「タルムード」ではないという。同時にユダヤ教徒以外には門外不出とされている。秘密にされていること自体、それの持つ陰湿性、秘密主義、異教徒への誤魔化しが感じられる。ある情報が他人に知られる事が、自分たちにとって不都合である場合、「秘密にする」という行為が行われる。自分にとって不都合でない場合は、情報を公開しても一向に差し支えないはずだ。「情報を隠す」という行為そのものが、そこに「隠さざるを得ない理由を包含している証拠」であると結論付けて差し支えないのである。まずは日本に長く滞在したユダヤ人のラビ(ユダヤ教の教師)であるマーヴィン・トケイヤーの言葉を借りて、タルムードの一般的解釈をご紹介しよう。

《勿論ユダヤ人は『(旧約)聖書の民』である。そして『聖書』がユダヤ人の文化の基礎を作っているとすれば、『タルムード』はしばしば中央に建った太い柱であると言われる。なんと言っても『タルムード』はユダヤ文化に於いて最も重要な本であり、そしてユダヤ人の創造力のバックボーンを成している。『タルムード』という本が生き続ける限り、ユダヤ人は滅びる事はない。ユダヤ人は発展を続けるだろう。・・・・『タルムード』はユダヤ人の魂であり、頭脳である。ユダヤ人はタルムード的な存在であると言われて来た。言い換えれば、タルムード的人間であったからこそユダヤ人は成功して来たのだ。キッシンジャーはタルムード的人間である。マルクス、フロイト、アインシュタインもそうであった。タルムード的人間であったところに、成功の秘密があった。そして来るべき21世紀にもタルムード的人間は成功するだろう。》(ユダヤ人ラビ、マーヴィン・トケイヤー著『ユダヤ人の発想』より)

トケイヤー氏が語るようにタルムードはユダヤ人の数々の成功の裏には、タルムードが存在しているのだと思う。しかし、この記述はタルムードの一面観に過ぎず、その本質を示したものでないことに注意すべきである。タルムードに関して興味をお持ちの方は、ネットで検索されれば現在では多くの情報がアップされているので検索していただくとして、ここでは秘密のベールに包まれたタルムードの最も興味深いと思われる部分を探し出して注目してみたい。

話は脱線するが・・・・タルムードが門外不出であったとしても、現代のインターネット社会においては、過去のように情報を秘匿しきれなくなってきた。十数年前までは、一般的にタルムードの詳しい情報などはほとんど知り得なかったが、現在では多くの人々のご努力のおかげで過去では知り得なかった情報がネットに流出している。誠にネットの存在は驚嘆に値すると言える。インターネットなかりせば、我々の本質的な情報収集は困難を極める。インターネットを開発し広めて下さった先達に心からの尊敬と感謝を捧げたい。私も二十年ほど前からインターネットをご指導いただき、以来人生の幅が大きく広がった体験を持っている。話は元に戻すとして・・・・。


その前にタルムードがなぜ生まれたのかという歴史背景を極簡単に見てみたい。約2600年ほど前に遡るが、二つに分裂した古代イスラエルの一つユダ王国が新バビロニアの攻撃により滅亡し、ユダ王国のユダ族が新バビロニアに捕囚された。その期間は約50年ほどと言われているが、その時バビロニア・タルムードができたと言われている。その後5~6世紀頃にまとめられたのが現在伝えられているタルムードと言われている。
さてそのタルムードの中でも最も肝心なところと言われている記述に関する文献を見てみよう。

《さて、もう一つの要素たるものは、ユダヤの民法ともいわれるタルムードの思想である。これはユダヤ人たるもの、生まれてから死ぬまで信念としているものである。タルムードは5、6世紀ごろ完成された実に膨大な法であるが、また日本では戦後いろいろのユダヤ人、日本人によって紹介されているようであるが、不思議なことに、何故かこの最も肝心なところが紹介されていないようである。肝心なところというのは、「シュルハンアルクノショッツェンハミツバッド第348条」である。すなわち「非ユダヤ人の所有する財産は本来ユダヤ人に属するものなれど一時彼らに預けてあるだけである。故に何らの遠慮もなくこれら財産をユダヤ人の手に収むるも可なり」とするものである。これの意味するところは大別して2つある。1つは、「一時預けてあるものであるから、何時なん時でも代償を払わずに取り返して然るべきものである」ということであり、もう1つは「ユダヤ人の財産は故なく非ユダヤ人に奪われたものである」ということになる。前者がレヴィーのマルクスヘの手紙の骨子となっているものである。つまり、私有財産の奪取という思想はここから来ているのである。さらにもう1つの後者の解釈はマルクスの大作「資本論」の根本思想をなしているものなのである。つまり、「ユダヤ人の財産は故なく非ユダヤ人に奪われたものである」からかの有名な剰余価値説が生まれているわけであり、「搾取」とマルクスが強調するものである。》(「日本人に謝りたい~ あるユダヤ長老の懺悔 ~」モルデカイ・モーゼ著 より)

第一回目の投稿でもご紹介したが、(まぁ、事実であると思うが・・・)この書はユダヤ人長老が書いたものであるとされている。世界と日本に対して混乱を招いた原因を、自らユダヤ人の行為であることを明言した、大変興味深い本である。その中で指摘されているタルムードのシュルハンアルクノショッツェンハミツバッド第348条「非ユダヤ人の所有する財産は本来ユダヤ人に属するものなれど一時彼らに預けてあるだけである。故に何らの遠慮もなくこれら財産をユダヤ人の手に収むるも可なり」なる記述がタルムード思想の最も肝心なところだと著者は指摘している。タルムードの秘匿されている内容がこのような情報であるのであれば、ユダヤ人としてはこれを門外不出にせざるを得ないのは当然といえよう。これが公に知れた日には、世界中から袋だたきに合うこと間違いなしである。まぁ、それにしてもユダヤ人の秘匿能力はずば抜けて優秀と言わざるを得ない。小生はユダヤ人のこの秘匿能力には甚だ関心させられる。しかし、秘匿行為はともかくとして、その奥で真実とは異なる詐欺的要素を隠し持っているのであれば、それはユダヤ人のためにも非ユダヤ人のためにもならない馬鹿げた行為であり、決して褒められるものではない。

「ユダヤの民法ともいわれるタルムードの思想である。これはユダヤ人たるもの、生まれてから死ぬまで信念としているものである」とされ、強固な信仰に基づくと共に、ある種絶対的な拘束力を持っているのだろう。このタルムードに謳われた上記の言葉の重みは計り知れないものがあろう。「非ユダヤ人の所有する財産は本来ユダヤ人に属するものなれど一時彼らに預けてあるだけである。故に何らの遠慮もなくこれら財産をユダヤ人の手に収むるも可なり」この律法に規定された信念に基づき、ユダヤ人は長年に亘り行動してきたのである。ユダヤ人の異教徒(ユダヤ人以外の人類)に対する異常とも思える行動が頷ける。・・・・このブログでは第一回にマルクスについて述べたが、これ以外にもユダヤ起源と考えられる無数の問題があるので、興味ある方はそれらのユダヤ問題についてもネットで探していただきたい。

この著者モルデカイ・モーゼ氏曰く、マルクスの理論は全てこのタルムード、特に前述した「シュルハンアルクノショッツェンハミツバッド第348条」から生まれた思想であると断言している。タルムードを真に知っているユダヤ人ならではの分析であり、私にとっても全く道理にかなう解釈である。ではなぜユダヤ民族が秘匿するタルムードにこのような排他的、独善的思想が入り込んだのだろう。


2)  タルムードの源流
    ユダヤ人が信じた神と人間の冷酷な関係


このユダヤ人著者は、これを遡る問題の原点の追求には至っていないようだが、何故このようなタルムード的発想が生じたのかということについて、さらにその源流を遡ってみたいと思う。ユダヤ教の原典はなんと言っても旧約聖書である。旧約聖書はユダヤ民族が持つ神話であり、神とユダヤ民族との約束の書であり、ユダヤ民族と異教徒との軋轢と迫害の記録であり、同時にユダヤ民族救済の予言の書である。

この膨大なる記述の中で最も象徴的に、彼らの神観、人間観、世界観が書かれている箇所は、『創世記』エデンの園の記載あたりと思われる。エデンの園における神と人間(アダムとイブ)との関係こそが、ユダヤ民族の思考の源流と考えられる。旧約聖書なるものは、ユダヤ民族が代々言い伝えられてきた神観、人間観、世界観に基づいて、神話と民族のルーツ、預言者の言い伝えを元に創作したものである。故に旧約聖書はあくまでユダヤ民族の考える世界観を示したものに過ぎない事をはっきりさせておかねばならない。しかし、どの民族神話、民族の伝記、予言の物語でも、その中に真実や真理が混在していることは承知している。逆に真理や真実とは全く違うものも混入されていることも当然である。聖書を読むにしても、どの宗教、学問の書物を読むにしても、読み手の解釈、見識力が問われると言わざるを得ない。ここで創世記の一部を覗いてみよう。

《2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。・・・・2:15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」・・・・3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」3:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」3:23 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。》(旧約聖書「創世記」より)

1)神はアダムを土の塵から作った。すなわち、人間は神の創作物であり、神は絶対者であり、人間は神の被造物という考え方から出発している。
2)神は命令者であり、人間は神からの命令を守って行動する存在である、という「契約」「約束」の考え方を持っている。
3)神からの命令に服さない場合は罰を受ける、という考え方を持っている。
4)神の命令に背いた(善悪の知識の木の実を食べた)人間に対して「原罪」の観念を持たせ、エデンの園を追放した。
5)その原罪の罰として「労働」を強い、子孫との間に「敵意」を持たせた。

さらにまとめると、ユダヤ民族が信じている神と人間の関係は、次のように捉えることができるだろう。

イ)神は絶対者であり創造者、命令者、支配者である。一方人間は神の被造物であり服従者、被支配者である。
ロ)神の命令に背き、善悪の智識の木の実を食べた人間は「原罪」を背負い、エデンの園(天国・理想郷)に帰ることは許されない。
ハ)神の命令(契約)に服さない人間に罰を与え、敵意と労働を課す。

これがユダヤ人の信仰(潜在意識)の根底に位置する観念であると考えられる。その民族の潜在意識の奥底に横たわる信念の通りに、その民族は歴史を築くことになる。ユダヤ人の潜在意識の根底には、強い信仰に支えられた信念が強固に構築されているのである。つまり、神と人間との支配・被支配の世界観、契約に基づく神と人間との冷たい関係、神に背いて「善悪の智識の木の実」を食したことによる「原罪」と「天国からの追放」、契約を守らなかった時の罪と罰、罰としての労働と敵意、そして善・悪、支配・被支配の二元論・・・・。無償の愛である筈の神の理想とは全く別世界の「冷酷無慈悲な世界観」であると言わざるを得ないではないか。このような冷酷無慈悲な概念に縛られたユダヤ民族にあって、その意識の解放のためにイエス・キリストが誕生し、神の愛を人々に説いたのではなかったか。しかしながら当時のユダヤ人たちはキリストを迫害し磔(はりつけ)にして殺害した。

無償の愛なる神を否定し、逆に冷酷な神を信じ続ける民族であればこそ、異教徒、他民族に対して敵意を持ち続け、自身の運命を冷酷悲惨なものに導いていったのだ。彼らが、支配・被支配の関係を築き、労働を罰として捉え、労働から逃避し、お金や財産や権利に執着し、契約に基づく社会を構築し、法律に執着し、エデンの園から追放された怨み故この世界に対する破壊願望を持ち、同時に天国への強い回帰願望を持ち、常に他民族と闘争し、被支配階級からの脱却願望を抱き、強烈な支配者願望が発生するのは当然の帰結と言えるだろう。彼らは物質的・金銭的に世界を支配することによって「成功をおさめた」と考えているようだが、それは成功でもなんでもないのである。それはなぜか、彼ら自身の潜在意識に流れる神と人間との「冷酷無慈悲」な関係性を、本来あるべき関係に取り戻していないためである。彼らにとっての唯一の「成功」は、神と人間との関係は、「親子的無償の愛」であり、そこには「原罪」も「罪」も「罰」も「追放」も存在し得ない事実に気づくことである。神と人間とは本来一体であり、この宇宙もこの世界も神の自己顕現の世界として見、全ては一体の愛によって構成されているという、その宇宙の本質に気づいた瞬間に、彼らは神の楽園に帰る事ができるのである。否否、人間は元々神の楽園から追放されてもいなかったことに気づけばいいだけなのだ・・・・。


大雑把に観察して西欧文明の根底にはキリスト教文明があり、その原点はユダヤ教文明でもある。共に旧約聖書を聖典とした宗教観である。枝分かれした宗教観が双方違ってきてはいるが、その根底においては、共通した絶対者たる神から創造された、被支配者的存在の人間という根本構図と、神からの契約を守らなかったことに発する楽園追放なる「原罪思想」とが同居しているのである。前述したように、キリストは「神の愛」を説き、神と人間の関係を本来の姿に目覚めさせようとしたが、後のキリスト教会の解き方は、依然として旧約聖書中の「原罪」意識や罪・罰、支配・被支配、善・悪二元論の世界観を後生大事に抱え込んでいたのである。この深層心理をこそ解明し、その呪縛から解放されぬ限り、西欧文明の本質的な解放はあり得ないと言わざるを得ない。ユダヤ人が中心となり長年月に亘り取り組んできた「解放」と「自由」と「平等」の理想は、前述した「原罪意識」と神と人間の支配・被支配意識からの解放に到達しない限り、真に目的を達成することは不可能だということになる。
ユダヤ人が虚構の理論で創作したマルクス主義にしても、現在盛んに行われつつある「グローバリズム」(グローバリズムは、共産主義で世界支配に失敗したユダヤ人グループが、国家を超越した国際資本により、全世界の権利と財産を奪取するための次なる作戦である)にせよ、結局は本質の解決には全くなり得ないのである。彼らが真っ先にすべきことは、唯一、神と人間の関係性の見直しであると断言しておこう。


3)  ユダヤ民族の宗教的呪縛と
    魂の理想とのギャップ


ここでユダヤから日本に目を向けてみよう。ユダヤ長老モルデカイ・モーゼ氏は次のように書いている。

《日本民族のもつ最大の財産は天皇制である。これは全く世界に類例のない偉大なものであり、人類の理想とするものである。かつてユダヤ人の大思想家でフランス革命に大きな思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で次の如きことをいっている。
「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである。」
ここでいう君民共治というのは、君主が決して国民大衆に対して搾取者の位置にあることなく、したがって国民大衆も君主から搾取されることのない政治体制のことである。ところがここで驚いたのは、日本人にこの話をするとみな不思議そうな顔でキョトンとする。私は最初その意味が全くわからなかった。しかし、だんだんその意味がわかってきた。日本の天皇制にはそのような搾取者と被搾取者の関係が存在しない、ということを私が知らされたからである。今度は私の方が驚かされた。日本人のためにちょっと説明しておくと、欧州でも、また最近追放されたイランの王室でも、君主はみな国民大衆に対しては搾取者の地位にあるものである。(注、この書籍は昭和54年、1979年発行)したがって、亡命するときは財産を持って高飛びする。これが常識である。だが、日本人の知っている限り、このようなことは君主制というものの概念の中には全く存在しないのである。しかるに、ユダヤ人ルソーの思想は搾取、被搾取の関係にない君主制を求めているわけである。これは確かに理想である。しかし残念ながら、ルソーはそのようなものが実在できるはずもないからやむを得ず、民主主義を選ぶというものである。
私がルソーの時代に生きていたならば、ルソーにこういったであろう。「直ちに書きかけの社会契約論など破り捨て、速やかに東洋の偉大な君主国へ馳せ参ぜよ」と。ここで非常に重要なことをルソーはいっているのである。今日本で絶対の善玉の神として一切の批判をタブー化されている民主主義というものは、ルソーによれば君民共治の代替物にすぎないということである。私が日本人を最高に尊敬するようになったのも、この天皇制というものの比類ない本質を知ったからである。日本では戦前、比類なき国体という言葉があった。またポツダム宣言受諾の際にも、この国体の護持という点が一番問題になったのである。これは真に賢明なことであった。
この日本の天皇制はユダヤ思想の理想であったことはルソーの言葉でもわかるが、他にもあるユダヤ人の言った言葉に次のようなものがある。
「わがユダヤの王は、目に見えない護衛だけで守られる。われらの王は威厳にみちてその権力を行使するのは人民の幸福のためにだけであり、決して王自身や王朝一族のためにこれを用うることはない。かくして王への尊敬と威厳はいやが上にも高まり、人民に崇拝され敬愛されるのである。そのため王は神格化されるだろうが、それはひとえに王の権威が人民に安らぎと幸福を保証するコーディネーターの役を果たすからに他ならない。」
断っておくが、これは日本の天皇制の描写ではない。ユダヤ民族の理想の表現なのである。これを見てもおわかりと思うが、ユダヤ人はルソーのいった如く、国民との利害関係をもたない君主が理想なのである。私が日本の天皇制の本質を知ったときの驚きが如何なるものであったかは、推して知られたい。地球上にユダヤ民族の理想が実在したのである。一般のヨーロッパ人は、とてもこのようなすばらしいものを創ることはできないであろう。我々ユダヤ民族も残念ながら未だ創ってはいないのであるが、しかしそれがすばらしい理想であるということを知っているだけでも日本人に近く、ヨーロッパ人よりも優れていることを日本人に認めていただければ無上の光栄である。一般にユダヤ人が天皇制の類い稀な点を発見したのは、戦後の天皇とマッカーサーの会見の時であった。かといって、ユダヤ人全部が知ったわけではない。今日本で勝手気ままにペンを走らせている若僧たちはもとより、こんなところまで知っているわけではない。それではユダヤ人が初めて天皇制の類い稀れな世界に燦たる本質、我々ユダヤ民族の理想である要素を完全に我々に教えてくれた、天皇とマッカーサーの会見の時の様子を述べてみよう。・・・・・・》
(「日本人に謝りたい~ あるユダヤ長老の懺悔 ~」モルデカイ・モーゼ著 より)

引用が長くなったがお許しいただきたい。あまりにも氏の言説が日本と西欧の本質に迫るものであり多くの示唆に富んでいるが故である。この中でユダヤ民族の理想が克明に表明されていることに注目したい。氏はその理想が日本における天皇の存在にあったことに気がついた、と断定している。ルソーの「社会契約論」はフランス革命の原動力となり、民主主義の原典的存在として神聖視されている中、氏は「直ちに書きかけの社会契約論など破り捨て、速やかに東洋の偉大な君主国へ馳せ参ぜよ」と言い切っているところなど、誠に愉快でならない。

ユダヤ民族は、一方に旧約聖書の神と人間の関係を「契約」「冷酷無慈悲」と見なす思想を持ちつつ、他方において人間の本質であるところの「親子的無償の愛」によって支えられている「理想郷」を魂の奥底で切実に求めていたことが分かるのである。しかし、残念ながらこの「理想郷」を求める魂の願望は、彼らが律法と信仰によって守り続けてきた旧約聖書とタルムードによって、雁字搦めに自縄自縛されていたがために、魂の奥底からの叫びである「理想郷」を現実社会の中で体現できないでいる憾みがある。

誰しも本質においては神と人間は親子の関係、神は無償の愛の体現者であり、そのような神に愛されている人間も、同時に無償の愛や、自由や、絶対的存在であることを、魂の奥底では知っているのだ。その魂の奥底の「理想」を現実社会の上で体現させるためには、魂の奥底の「理想」と同等な思想、宗教観、人生観、国家間、神観を自己の意識の中にも保持する必要があるはずである。自身の魂の奥底から発せられる形容しがたき「理想」と、自身が保持する「宗教観・人生観」が乖離する程度に応じて、矛盾となって現実生活の上に投影せざるを得ないだろう。

幸いにして、日本民族は二千数百年に亘って、魂の「理想」と、「宗教観」「自然観」「宇宙観」「人生観」の全てが、同じ方向を向いていたといい得るのである。その結果として、国家は天皇(君)と国民(民)が同治、共治の国体(君民同治の国柄)を創ることができたのであろう。

その思想、宇宙観は、神道となって全てを神として拝み得る、極めておおらかな自然観を持ち、他文化、他民族に対しては極めて寛大にして、包容力と他文化自己摂取能力に富み、家庭においては家族制度として親子兄弟、先祖子孫を大切にする習慣となり、自然に対しては全ての存在を神として拝み尊重する優しさと敬虔さを備え、他人に対しても神としての尊厳を礼の形で表し他者への攻撃排斥を嫌い、自身に対しても神の子孫としての尊厳を持つが故に自ずと自信が漲(みなぎ)るこことなり、働くことは神の自己顕現の証であることを知るが故に、他者への奉仕や物事を創り出すことへの無償の喜びを感じ、働くこと創造すること自体が至上の目的となるが故にお金や報酬にこだわる必要もなく、政治に対しては「和」の精神で社会の福祉、公益の為に身を呈することを旨とし、自身を攻撃する相手にさえ尊敬の念と礼儀を失わず、神の自己顕現としての永遠の生命を知るが故に死をも恐れず、公のためには自己の生命さえも投げ出すことができる・・・・類いまれなる「日本精神」という偉大なる文化を築きあげたのである。

4)  日本民族が築いた文化の根底にあるもの
    神と人間と天地自然との一体感(一元論)


ではユダヤ教キリスト教文化とは全く異質且つ、ユダヤ民族の理想の国体を作り上げた日本の文化との圧倒的違いが、一体どこから生じたものであるのか?

単純に、日本人が優秀であるとかないとか、環境が温暖であるとかないとか、周辺諸国との戦争が多かったとかそうでなかったとか、地政学的問題であるとかないとか・・・そういう観点だけでは説明のしようがないのである。複雑多岐に亘る歴史文化の発展過程を詳細に研究し、理論化する試みは、学者、思想家の諸賢が盛んに試みられてはいるが、納得のいく的確なる回答を導きだし得るだろうか。あまりに複雑怪奇に物事を分析し組み合わせようとも、枝葉末節を論ずるは、物事の本質を逆に見えなくするだけである。私がここで言いたいのは、その民族が抱き続けてきた極簡単な根本思想が如何にあるか、という点に注目すべきだということである。

すなわち、その民族が抱いている「宇宙観」であり「神観」であり「人間観」である。それは日本の神話「古事記」「日本書紀」に求めざるを得ない。記紀に示された神々の世界を紐解けば容易に見えて来るものがある。この宇宙が天之御中主神から次々と神が生まれ、世界が生み出された世界であると、この宇宙を一元論的にとらえたのは日本民族である。天之御中主神なる根源神の自己顕現として宇宙が生まれ、万物が生まれ、神々が生まれ、神自身の子孫が人間として地上に降臨してきたという考え方が、日本民族の神話として言い伝えられてきたのである。その神話の流れの中で「天皇」が存在し、「神」=「天皇」=「国民」として自然展開してきたと考えたのである。これら記紀の宇宙観には、支配・被支配、契約社会の概念、契約破棄による原罪の観念、贖罪としての労働、労働搾取、労働と贖罪からの解放、革命破壊による権利の奪取、理想郷(エデンの園や天国)への回帰願望の問題は微塵も存在しえないのである。

一方ユダヤ民族やキリスト教徒は、前述した通りに神と人間の関係を絶対者と被造物、命令者と服従者、すなわち支配・被支配の支配関係としてとらえ、神と人間との間には契約(約束)が存在すると考え、その契約を守らなかったが故に、人類は「原罪」を持ち続けねばならず、エデンの園という理想郷を追われて人間は罰として労働を強いられ、人間同士は敵意を持ち続けると考えたのであった。この根本神話の当然の成り行きとして、様々な問題が現実世界において展開せざるを得なかったということである。

日本民族は神と天地自然と天皇と国民はそもそも一体である(唯神論的一元論)との大前提が確立しているので、支配(神)、被支配(人間)なる二元論的観念は微塵も存在しない。同時に神と人間との間には約束や契約という「条件」は一切存在しない。日本民族にとっての神は「無条件」なのである。無条件なるが故に、当然神から与えられる原罪もなければ、神から課せられた罰則もない。当然の事として、日本神道には「教義」なるものは一切存在しないのである。「教義」が多く存在する程度において、その前提として「約束」や「契約」「律法」「条件」という一種の強制力、支配力が存在することを意味し、それに伴って観念の呪縛が発生し、本来人間に内在している「自由」と「絶対性」と「創造性」が損なわれることとなる。


日本神道においても「罪」という言葉は存在するが、ユダヤ・キリスト教的な「罪」とは大きく意味を異にしている。日本神道における「罪」とは、人間自身が内在する神性を自らが隠蔽する場合の言葉であって、神からの契約を守らなかったことに対し神からお叱りを受けるような意味合いの「罪」では決してないのである。また、神と人間の一体感(愛)は、日本民族にとって極々自然な感情となっている。自然過ぎる当たり前の感情であるが故に、取り立てて「教義」を設けて、「神の愛」などと教え諭す必要がないのが日本民族なのだ。日本人は宗教にはルーズだとよく言われるのは、こういう神への当たり前過ぎる感覚が存在するためと言えるだろう。また日本民族にとっては、人間が働くことは神自身の働き(創造)と同一であるから、働くこと自体が神の神聖性をもっている。

それに対してユダヤ・キリスト教の世界では、労働は原罪に対して神から課せられた罰であり、支配(神)、被支配(人間)の関係上、人間は支配者である神を心の奥底から信頼し、愛することができなくなる。すなわち支配・被支配、善・悪の二元論的世界観を持ち、罪悪感と罰を強いられているため、たとえ絶対者たる神に対しても、深層意識としては神を否定し、神を憎まざるを得なくなるであろう。すなわち原罪を抱く信仰は、必然的に神への否定を伴うことになる。キリスト教においては、せっかくキリストが「神は愛である」ことを説いたにもかかわらず、未だに原罪の観念、支配・被支配、善悪二元論の縛りから解放されないのは誠に残念と言わざるを得ない。

すなわち、「原罪」を信じ続ける民族は、深層心理において、神を否定し憎む運命を持つことになる。つまり潜在意識では神の否定、神との乖離意識を持っており、神を熱心に信仰していると言いながらも、唯物論、唯物史観の根を持った神への信仰と考えられる。ブルジョワジーによるプロレタリアートへの支配・被支配の概念も、原罪を大前提として形成した世界観の変形であるといえる。プロレタリアート(権力を持たない人間)を自認する被支配階級の人間(ユダヤ人)が、支配階級たるブルジョアジー(絶対権力を持つ神)に対する憎しみと羨望と反逆観念として、プロレタリア革命を通した共産主義社会(プロレタリア独裁)を夢みる。エデンの楽園から追放された彼らにとって、これが生きる希望となる。マルクスにとっての共産主義社会(プロレタリア独裁)への回帰願望(原始共産主義への回帰)も、ユダヤ民族のエデンの楽園への回帰願望(最後の審判を通して千年王国に回帰する)の現れとも言える。


5)  神と人間の冷酷無慈悲な関係性は
    宇宙の理に適ったものか?


旧約聖書が形づくられて2500~3500年が経過している。その間人類はどれほど悲惨な運命を経験した事であろう。旧約聖書は前述したように、世界の代表的大宗教の3つが根本聖典として信じられてきた。旧約聖書+タルムード=ユダヤ教、旧約聖書+新約聖書=キリスト教、旧約聖書+コーラン=イスラム教。その他多くの人々が旧約聖書を読んでいることだろう。その影響力たるや、計り知れないものがあるに違いない。何回も繰り返すが、その民族の運命は、その民族が深く信じている深層心理の雛形に従って形づくられるのである。この間、人類は悲惨な運命を数多く現し出した。それはとりもなおさず、人類の潜在意識の奥底に抱く思想が、「悲惨」なものであり、「冷酷無慈悲」なものであった、という証拠といえるのである。

もし把持せる思想に問題があるのであれば、潔くその問題点を解明し、宇宙の理に適った新しい思想に勇敢に置き換える必要があるのは当然と言える。これこそ喫緊の課題なのだ。真に宇宙の理に適った哲学、思想体系、神話であれば、それを採用した民族・人間は、宇宙の理に適った人生を送るであろう。しかし、宇宙の理に適わない哲学、思想、神話であれば、それを採用し続ける民族・人間は、宇宙の理に反した不都合且つ矛盾と葛藤に満ちた悲惨な人生を送り続けなければならないのは仕方がないことである。

地球上で最も影響力を持ち続けた書物は旧約聖書であろう。21世紀に入りわれわれ人類は、ユダヤ民族が創作した神話、すなわち旧約聖書が宇宙の理に適ったものであるかどうか、ということを真剣に検討しなければならない時期に来ていると信ずる。

果たして、ユダヤ民族・キリスト教の旧約聖書が採用した宇宙観、神観、人間観、自然観の方が宇宙の理に適ったものなのか? それとも日本民族が採用した宇宙観、神観、人間観、自然観の方が宇宙の理に適ったものなのか? それはその民族が長年の歴史を通して、現実世界で体験したことをウソ偽りなく、色眼鏡をかけずに正直に観察すれば、自ずと答えが導き出されるであろう。現象世界の体験舞台と歴史的事実は、正にそのために存在していると言っても過言ではない。現実を誤摩化すことなく、詳細且つ平等な観察眼で現実社会で起こっている事、過去の歴史で起こった事を観察すべきである。実際にその思想に基づいて行動に移した時、必ずそれに見合った結果を宇宙は提供してくれる仕組みになっている。イエスは「木の善し悪しは、その結ぶ実で分かる」(新約聖書・マタイによる福音書12:33)と教えた。思想の善し悪しは、その結果を冷静に観察しさえすれば、明白に分かるのである。

その時にただ一つ注意を要することがある。それは・・・・「誤摩化さない」・・・・ということだ。日本精神は「正直」を尊んできた。日本民族はある意味「馬鹿正直」な民族だ。「馬鹿正直」であるが故に、他民族に騙された経験は幾多とあるが、日本民族の方からは他民族を誤摩化すことはしなかった。しようと思ってもようできないのが日本民族である。しかし「正直」であったればこそ、結果として平和で発展し調和した美しい国家を作り上げることができたのだと思う。このことは厳然たる事実である。物事の事実をありのままに観察し、そのまま「正直」に受け止める・・・・この姿勢こそが、あらゆる問題の本質を学ぶ原点であると思われてならない。事実の観察に対して、「偏見」や「既成概念」や「欲」や「誤魔化し」は無用である。それらが介在する限り、真の「神」を見いだす事は永遠にできないだろう。


幾千年に亘り人々は白昼夢にふけり続けた。
この悲惨に満ちた人生から助け出してくれるために、いつの日にか偉大なる「メシア」(救世主)や「共産党前衛」が再臨してくれるに違いない。そして「ハルマゲドン」や「最後の審判」や「プロレタリア革命」なる、圧倒的強制力によってこれらの問題を破壊してくれるに違いない。その後には「エホバ神」や「経済的必然」なる人間を遥かに超えた絶対力によって、悲しみに満ちた我々を、「天国」や「千年王国」や「共産主義的理想世界」に連れて行ってくれるに違いない・・・・と。白昼夢をいつまで続けたいのだろうか?

「唯物史観の絶対的法則からすると、20世紀中には必ず共産主義革命が全世界に起こり、搾取されていた全てのプロレタリアートは解放され、共産主義理想社会で安穏と暮らす事ができるのだ!」・・・・しかし、現実には共産主義社会は悲惨の限りを尽くし、もはや地球上から姿を消し去ろうとしている。命をかけて戦い続け理想に燃えたあの白昼夢は、無惨にも消え去ってしまった。「いやいや、今度こそ本物さ!20世紀の終わりには、ハルマゲドンが起こり、最後の審判の後に千年王国が必ず訪れる筈だ。だって聖書にはそう書いてあったし、16世紀の有名な預言者もそう断定してくれたんだから!」・・・・しかし、待ちに待ったハルマゲドンは現実には来てはくれなかった。

人々はこんな事をいつまで繰り返すのだろうか?「自分達の悲惨な現実を、自分たちの力を超越した救世主がいつか現れ救い出してくれる」この考え方は、人間内在の偉大なる神秘力を自ら否定し限定する考え方に過ぎない。それは自己の無力さを宣言しているに過ぎない。人は心の奥底で宣言した通りの運命を創り上げる力を持っている。その人々に悲惨なる運命が満ちている場合には、その一人ひとりの心の奥深く(潜在意識)に住む、「悲惨の原因」を捨て去ればいいだけである。そして心の中の「悲惨の原因」を捨て去るためには、神と人間とが本来一体であり、神と親子関係にあり、無償の愛で愛されていたことを思い出すだけでいいのだ。もともと人間は神と一体であるが故に、なんびとも既にそのことを知っているのだから・・・。「メシア」も「共産主義」も「ハルマゲドン」も「最後の審判」も「プロレタリア革命」も無用であることを知る必要がある。人それぞれ、既に天国を手中に持っており、それを現し出すのも、隠し続けるも自由自在であるのだ。

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