3/被告「旧約聖書の神ヤハウェ」を弁護する・・・・「因果律」も畢竟「無償の愛」そのものだ!

1) 旧約聖書の神「エホバ」と「エロヒム」
2) 「ヤハウェ」は神の「因果の法則」的側面
3) 「愛なる神」(霊)が主、「因果の法則」(物質)は従
4) 心に思った通りにこの世界は展開する
5) 旧約聖書の律法は「因果の法則」の教訓的戒め
6) 「因果の法則」は自分が何者であるかを探すツール
7) 「因果の法則」は「神の無償の愛」そのもの

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前回のブログでは旧約聖書の根底に流れるものを探ってみた。それが善・悪、支配・被支配の二元論的思考であり、神と人間の関係が契約(約束)で成り立ち、その契約(約束)に違(たが)うと「罪」を背負い、「罰せられる」という世界観を持っていることを指摘した。これが、あたかも「ユダヤ起源の諸問題の新犯人探し」という裁判で、被告「旧約聖書」に対する検察側論告求刑のようであったが、実は私には旧約聖書自体を否定するつもりは毛頭ない。今回の書き込みでは、被告席に座らされた「旧約聖書」に対して、逆に弁護側に立って証言をしようと決意している。それはどういう意味かと言うと・・・・旧約聖書に主に出て来る「エホバ神」に対する解釈の未熟さが原因で発生せる誤解である、ということを証拠を持って弁護したいと思っている。

イスラエル民族は宗教的天才であることに誰しも異論はないと思う。アブラハム、モーゼ、イエス・キリストを排出したのはイスラエル(ヘブライ)民族(※注)である。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖典は、イスラエル民族が語り継いだ旧約聖書である。これらの3つの宗教を総称して「アブラハムの宗教」と呼ばれるが、現在地球上のほとんどの地域に浸透し、34億人以上の信者数を数えている。2000年の歴史をはるかに超えて、アブラハムの宗教(旧約聖書を元にした宗教)は全世界を席巻したと言える。

(※注)【「イスラエル民族」とは、アブラハムの孫ヤコブ(後にイスラエルと名付けられた)を起源とする民族。古代イスラエル国家を築き、後に12支族の内ユダ族が「ユダヤ教」を発展させた。一方「ユダヤ人」とは何か。そのユダヤ教に改宗した人を「ユダヤ人」という。つまり古代のイスラエル民族(イスラエル12支族)と直接血のつながりはなくとも、ユダヤ教に改宗すれば「ユダヤ人」になる。なお「ヘブライ人」とは、ヤコブがイスラエルと称されるまでの民族の総称をヘブライ人(民族)と呼ぶ。】

そのような宗教的天才たるイスラエル民族が言い伝えた「旧約聖書」が、全く間違いであると否定する事はいささか短絡的過ぎる。もし全く間違いであるなら、幾千年もの間「聖書」として人々に読まれ続ける筈もない。しかし、前回の書き込みで明らかにした通り、旧約聖書にはどこかに不完全な要素が潜んでおり、それが為にそれを信ずる人々に、様々な問題を与え続けたことも見逃す訳にはいかないのである。私は、旧約聖書に隠された問題の本質は、エホバ神に対する解釈の問題であると思っている。・・・・では、その理由を説明していこう。


1) 旧約聖書の神「エホバ」と「エロヒム」


旧約聖書に登場する神はほとんどが「エホバ」である。創世記のエデンの園以前の宇宙創造の部分や、他の箇所で「エロヒム」が使われているというが、英語訳の聖書の段階で、「エロヒム」と「エホバ」が混同され、ほとんどが「エホバ」として記載されているという。

《 聖書辞典によると、エロヒムという用語は、ヘブル語の旧約聖書には頻繁に使われていたが、英語に翻訳された時に取り除かれてしまったと書かれています。「エロヒム」はカナン人の言語「エル(El)」あるいはヘブル語の「エロア(Eloah)」の複数形で、いずれの言葉も「神」を意味しています。またアラビア語と比較すると、神をEloahと類似したアラー(Allah)という語が使われています。ヘブル語聖書には複数の「エロヒム」という用語が2570回使われているのに対して、単数形の「エロア」は57回使われています。
ヘブル語で使われる神(「エロヒム」)は、イスラエルの神を指す普通名詞の複数形で、創世記1:1にあるように、「はじめに神(ヘブル語でエロヒム/Elohimまたは文字通り神)は天と地とを創造された。」「エロヒム」という用語はまた、永遠の父なる神に当てはめることができ、全能の、昇栄した、万能の、最高権威のといった意味に使われます。
さらにヘブル語聖書で「イスラエルの神」を指す固有名詞は、「エホバ(Jehova)」が使われています。》
(MormonWiki「エロヒム」より)

《 古代ヘブライ語の旧約原本によれば、創世記の第1章に登場する神はエロヒム(Elohim、神々という複数形)とあり、第2章の4節からはヤハウェ(ヤハウェー、Jawhe)の名前で書かれていまして、後の文章も全般に渡りエロヒムかヤハウェのどちらかあるいは両者一緒に使われています。この事から、別々の2つの原本が後のモーセ五書に組込まれたのではないかと推定されました。ヨセフがエジプトに奴隷で売られた話にも、一つの句にはエロヒム、別の句にはヤハウェの名が並行して用いられていますし、ノアの洪水伝説にも同様で・・・もしエロヒムとヤハウェの話を別々に抜出せば、2つの独立した物語(そのうちのどちらか1つを眺めれば矛盾がない一貫性のある話になる)が出来る・・・という事に着目して一連の研究がなされたようです。
現在では、この2つはヤハウェ(Jawhe)の頭文字をとってJ資料(ヤハウィスト)、エロヒム(Elohim)の頭文字をとってE資料と呼ばれています。・・・・
●ヤハウィスト伝承(J資料)
・・・・ソロモン王国崩壊後、二つのユダヤ民族(北イスラエル王国と南ユダ王国)の間に、政治的・宗教的・思想的な闘争が展開された時、ユダヤ人の歴史をユダ種族(南ユダの種族のひとつ)を優位性を示す意図が見られる事から、この資料は最終的に南ユダで書かれたと想定されている。・・・・
●エロヒスト伝承(E資料)
・・・・成立時代として考えられるのは、記述内容から申命記以前であるとされ、また預言を重要視している事や、ホセヤ書の歴史神学と類似している点が見られる事から、南北分裂した王国の北イスラエルにおいてヤハウィスト伝承に対抗するような形で、数十年後の前8世紀前半頃に作成されたのではないかと推定されている。記述内容から、特に重要視されているのがエフライム族とマナセ族の始祖とされているヨセフであり、主要な事件の舞台も北方に位置するベテル、シケムその他の町々である。このE資料は、J資料(ダビテ王家の正統性を主張)とは逆に、「王としてのヤハウェ」(民23章21)を主張しているのではないかと考えられている。この思想は、王国形成より以前の時代に由来すると考えられ、イスラエルを宗教的・精神的なヤハウェ直接支配の誓約共同体として記述されているようだ。》
(「イエスの実像を探る」付録 旧約聖書成立の概要(その1)より)

旧約聖書には「エロヒム」と「ヤハウェ(エホバ)」の二つの神の名が出て来るが、その違いについての決定的な定説はないようだが、次のような記述は注目に値する。前者の資料からは《「エロヒム」という用語はまた、永遠の父なる神に当てはめることができ、全能の、昇栄した、万能の、最高権威のといった意味」とされ、「ヤハウェ」については「ヘブル語聖書で「イスラエルの神」を指す固有名詞は、「エホバ(Jehova)」が使われ・・》となっている。後者の資料によると、「エロヒム」は北イスラエル王国で主に信じられてきた神であり、「ヤハウェ」は主に南ユダ王国で信じられた神と考えられる。

北イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、そこに住んでいたイスラエル10支族(南北王国の構成を単純に10支族と2支族には分けられないそうだが・・・)は、以後行方が分からなくなり、歴史から姿を消してしまった(失われた10の支族)。一方南ユダ王国は紀元前586年新バビロニアに滅ぼされバビロンに連行された(バビロン捕囚)。南ユダ王国に属していたユダ族とベニヤミン族ならびにラビ族はその後の様々な変遷を経て、現在言われているところの「ユダヤ人」となった。そのユダヤ人が後に様々な過去の記録を元に現在伝えられているところの「旧約聖書」を編纂したと言われている。


2) 「ヤハウェ」は神の「因果の法則」的側面


創世記第1章に登場する神エロヒムは、天地創造の根源的神に近いものとして認められる一方、それ以降頻繁に出て来る神ヤハウェ(エホバ)は、「約束」「罪・罰」「支配・被支配」等の「心の法則」、すなわちこの形ある宇宙を支配する「因果の法則」に相当するものと認められる。現に物質宇宙を支配している「法則」は「因果の法則」であり、それを神学的、宗教的にみれば、「全能なる絶対神の法則的側面」と解釈し得る。

《古くからヤハウェの名は、「存在」を意味する語根と関連づけて解釈されてきた。これは『出エジプト記』第3章第14節で、ヤハウェがモーセに応えて「私は在りて在るものである」と名乗った事に由来する。》(Wikipedia「ヤハウェ」より)

モーゼが「柴の中の炎」の内に見た神は、「私は在りて在るものである」と言われた。英語では ”I am that I am” “I am who I am” と訳されている。この解釈は色々となされているようだが、一番しっくりいく解釈は、「 ”私は○○である”と宣言したものが、私である」という解釈である。つまり、「自分が宣言した通りの自分となる」という意味であり、簡単に言えば「思った通りになる!」ということを教えたのだ。つまりこれは「因果律」(心で思った通りに形の世界が現れる)であると解釈できる。モーゼの出会った神ヤハウェ(エホバ)は、全能なる絶対神の「因果律(因果の法則)」的側面と、このモーゼの見た神の記述からしても、同様に解釈することができるのである。

ここで結論的に簡略化してまとめておこう。旧約聖書でしばしば出て来る神ヤハウェ(エホバ)は、全能なる絶対神の「因果の法則」的側面であると解釈すべきだということである。旧約聖書のほとんどの部分を占める、約束、善・悪、支配・被支配、罪・罰、等々の二元論的現象は、「因果の法則」の諸相であると言える。「契約(約束)」とは「法則」である。契約や約束を誰かと交わした時、それに従えば罰せられる事はないが、それに反した場合には罪と見なされ罰せられる。航空力学の物理法則をよく研究し、それにしたがって飛行機を飛ばせば、快速・便利な飛行が約束されるが、航空力学をあまり学ばずに飛行機を作って無理やり飛ばせば、地上に墜落して死を招くようなものである。しかしその墜落や死は一見「罰」のようにも見えるが、実は「罰」ではないのだ。「物理の法則」を十分知り得ず、利用し得なかった当然の結果に過ぎない。

神を法則的側面でみた場合、「法則」は絶対力を持つが故に「支配者」であり「命令者」とも見ることができる。一方その法則を利用する「人間」から見ると、人間は永遠に「被支配者」であり「服従者」であるとも見れる。法則に反する行為をした場合には「罪人」と見なされ、「罰」を受け、「労役」を課せられる姿とも現れる。(霊的宇宙と対比する意味で)現象的宇宙においては、厳然と「原因結果の法則」によって支配されているのであるから、旧約聖書に記された「法則的神」と人間との関係性は、ある意味仕方がない解釈と言わざるを得ない。


3) 「愛なる神」(霊)が主、「因果の法則」(物質)は従


しかしながらここに大切な要素が軽視されていることに、気づかなくてはならない。それは全能なる絶対神の「愛」の側面である。この「愛」というものは、一体何を意味するのか? 全ての人間は「愛」を知っているし実感もあるのだが、それではその「愛」がどこに存在しているのか、ということになると皆目見当がつかない。勿論目には見えぬし、お金で買う事はできない。どこにあるのか一所懸命探したところで見つかるような代物でもない。皆様は既にお気づきの通り、「愛」とは物質(現象)世界を超越した、いわば霊的世界の存在である。全ての人々が経験しているように、ただ心の奥深くで感じ取るものである。

人間の本質とて同じことだが、肉体人間を超えた霊的存在が、より自分の本質であることを我々日本民族は普通に知っている。日本民族は肉体が死んだ後も「魂」として永遠に生き続けていることを知っている。だから、肉体の死をそれほど悲惨なものとは思っていない。肉体の生存よりももっと重要な魂の価値を知っているが故に、肉体や現象世界への執着がさほどない。国家の危急にあたって、いざという時の日本民族の戦いっぷりや、死に対する潔さは、それを物語っている。それは昔から「武士道」「軍人精神」ともなっている。日本人の勇敢さは外国人の脅威の的なのだ。

話は少しずれたが、物質世界を超えた霊的世界の存在を考慮に入れぬ限り、「生死」も「愛」も言及できないことになる。「愛」は霊的宇宙、高次元宇宙の存在である。
《「我らに対する神の愛を我ら既に知り、かつ信ず。神は愛なり、愛に居る者は神に居り、神も亦かれに居給ふ。》(「新約聖書」ヨハネの第一の書 4:16 より)
《「我が国は、この世の国にあらず」》(「新約聖書」ヨハネ福音書 18:26 より)
キリストは「神は愛なり」と明言された。旧約聖書の法則的神はあくまで「現象(物質)世界を支配する法則としての神」であるが、キリストの説いた神は、「現象(物質)世界を超越した霊的世界、生命的世界、神的世界の神」を指しているのであり、その高次元の「神」は「愛」であると喝破したのであった。

旧約聖書ではなぜか現象世界を支配する「法則面としての神」のみに注意が払われた。その結果として、支配・被支配、善・悪、罪・罰、憎しみ、敵意、争いの世界が展開したのは、当然と言わねばならない。「目には目を歯には歯を」の世界観である。それは現象(物質)世界のルールそのものである。その現象世界のルールに縛られすぎていては、人々は解放されない。その問題点を解消するために2000年前ユダヤの地にキリストが誕生し、「神は愛」であり、全ての人間の「罪」は赦されていること、そして「我が国は、この世の国にあらず」と物質世界を超えた「霊(神)的世界」が本当の居場所であることを教えたのだった。つまり人間生命の本当の居場所は「霊(神)的世界」にあり、「神は愛」であり、その世界から観察すれば「罪」は本来ない事をキリストは知っていたのだ。「神が愛」であり、「罪」は存在せず、全ての人間は赦されているとキリストは説いたが、残念ながら後のキリスト教会は、旧約聖書に書かれているところの「法則的側面の神」の解釈を、依然「冷酷無慈悲」なものとして受け止め続け、人々に「原罪の恐怖心」を煽り続けたのだった。また、人々に恐怖心を煽ることによって、教会は多くの利益を上げ、勢力拡大に奔走した。教会は「キリストの愛と赦し」に人々を導こうとしたが、「冷酷無慈悲の現象の法則」と「原罪」の恐怖心を大前提にしているため、潜在意識に刻まれた恐怖心は人々の心を真に解放するまでにいたらなかった。現に教会の名において、どれほどの殺戮と争いと支配が繰り返されただろうか。

物質世界の「因果律(因果の法則)」を前提にして、「神の愛」を説く方法はことごとく失敗したのである。物質世界を前提にし、その上で「神の愛」を認めるということは、「物質(因果律)世界」を「主」に置き「霊(神)的世界」を「従」に置くということだ。心の奥底では「物質世界の支配被支配的強制力」や「原罪」の恐怖心を認めていることになる。それでは信じた通りに、その人の運命は恐怖に満ちたものが展開せざるを得ないことになる。

まず、キリストの説いた「愛なる神」(霊的世界)が絶対的根底にある事を認めた上で、「因果の法則」(物質世界)を理解し活用することが大切なのだ。そのためには、霊的世界と現象(物質)世界のどちらを根源的と見るか、重要視するかということを明確にしておく必要がある。日本民族は霊的世界、神的世界、生命的世界が本質であり、そこが根源であることを不思議と知っている。日本民族の神話がそれを物語っている。それは物語として人々に語り伝えられ、民族の潜在意識に浸透していった。それが「日本精神」となって日本の霊的文化を構築したのだ。日本民族の場合は、物質世界に比べて、霊的世界の方が根源的であり、重要であることを知っているため、平和で穏やかで豊かな国家を創り出す事ができたのだ。「物質」面より「霊」に重きを置くことの重要性を示している。あくまで「霊(神)的世界」が「主」であり、「物資世界」が「従」である。これを間違ってはならない。心の深層の思い(信念)が、その人の環境(物質世界)を決定するのだから。


4) 心に思った通りにこの世界は展開する


それでは、現象(物質)世界における「神の因果の法則的側面」と、霊的世界における「神の愛」とは、どのような関係にあるのだろうか? 果たして、対立的に存在するものなのか? それとも・・・・?

「因果の法則」は旧約聖書の解釈によれば、実に「冷酷無慈悲」な存在として受け止められる。これは旧約聖書に限ったことではないのだ。現に様々な宗教(仏教諸派、儒教・・・)において「心の法則」は説かれているが、生半可な理解は「因果の法則」から逃れられない大きな落とし穴に墜落することになる。現象宇宙におけるこの「因果の法則」は厳然たる強制力を持って、我々を苦しめているように見える。しかしそれは、「因果の法則」に対する理解が中途半端である場合に起こる「誤解」である。

「因果の法則」とは「思った通りにこの世界は展開する」という意味である。それは取りも直さず「自分に降り掛かる一切のことは、自分自身の心の中で描いたものが現れたものにすぎない」という見方である。「いやいやそんなことはない」と思う人は、自分自身の運命を創り出す力を、自分自身で勝手に放棄してしまった者だ。それを「自己限定」と言う。例えば、何かの作品を作ることでも、自分の思った通りに展開させた結果である。多少の差はあれ、自分の思った事が、現実世界で成就した経験は、どなたもお持ちであろう。ということは「自分が思った事が成就した!」ことを経験的に確認したことになる。多少なりともそれが事実であるということは、「自分の思った事は現実化し得ない」ということを、完全に否定せしめたことになる。つまり、誰しも「自分の心の神秘力」「自分の心の創造力」「心に描いたイメージを現実世界に具象化させる不思議な力」の存在を(無意識的にでも)認めている、ということになる。

自分の心と言っても、どの程度までが自分の心の範囲なのか? 「どこからどこまでが自分の心なのか」ということは皆目検討がつかない。誰も実感として分からないだろう。物質世界に心が存在しているのであれば、計測したり観察することも可能だが、霊的、生命的世界の存在である「心」は計る事ができないのは当たり前だ。

一方、「愛」は一体なんなのか? これもよく分からない。しかし、キリストの言葉はすごい!「神は愛なり!」と断定した。つまり、「愛」は「神」なのである。「神」に限りがないと同様に「愛」にも限りはない。ということは、「愛」も現象宇宙を超越した存在であり、全ての全てなんだということをキリストは教えてくれた。また「愛」は「自他一体感」でもある。霊的(神的)世界というものは「神」の世界であって、一体(ひとつ)の世界ということになる。

「心」という得体の知れないものも、霊的(神的)世界の存在であるが故に、愛と同様に全ての心と一体の世界と解釈するのが最も適当と言える。つまり、「どこからどこまでが自分の心なのか」という疑問については、自分で限定した程度にしたがって範囲が狭められ、自分で限定を取り除く程度にしたがって広がるということなのだ。自己限定した人間は、それだけの結果しか出ないし、自己限定をかなぐり捨てた人間は、より大きな結果を経験する事ができる。「自己限定を打ち破る」日々の精進は、畢竟その人がイメージを描く「心のキャンパスの範囲を拡大させる」事を意味している。その努力を通じてその人の人格は向上し、「見識が広がり」「世界が広がり」「愛が広がる」と見なすのである。「人格の向上」は正に「心の広がり」と言える。このように人類は「心」を使って様々な経験を展開させ日々証明しているのである。ただ、「心の範囲」を限定する程度に応じて、「思った通りになっていない」という不完全な観察の罠に落ち入ってしまうのだ。本来「心の範囲」は無限なのだ。すなわち、自分の「心の範囲」は無限であり霊的(神的)世界の存在であるが故に、自他の心は究極「一つの心の共有」に過ぎない。それを「自他一体」といい「愛」とも言う。旧約聖書の説く「エホバ神」は「因果の法則の神」の側面を強調したものであるが、それは「心で思った通りにこの世界は『自由自在』になる」ということを教えたものである。


5) 旧約聖書の律法は「因果の法則」の教訓的戒め


「心で思った通りにこの世界はなる」ということは、取りも直さず、「人間も神と同様なる神秘力、無限力を内に秘めている」ことを示していることに他ならない。
《 3:22主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。》(「旧約聖書」創世記 3:22 より) 
「創世記」第3章22節に書かれているように、神は「人はわれわれのひとりのようになり・・・」と言われた。この言葉の解釈は宗派によって様々だろうが、文字通り無理なく解釈するとすれば、「人間は我々神と同じ仲間のようになった」と言われたのだ。つまり、神と人間とは本質的に同じきものだということである。したがって、神の創造力は人間にも備わっており、「人間は心で思った通りの物を、その環境に現し出すことができる」ということである。キリストは《誠に汝らに告ぐ、天地の過ぎ往かぬうちに、 律法(おきて)の一点、一画も廃ることなく、悉く全うせらるべし》(マタイ5:18)と言っている。イエスの時代「律法」とは、モーゼの十戒を始めとした、神から知らされた守るべきものであるとされている。細々と規定された「律法」は、人間にとっての神からの戒めであるが、言葉を変えれば「因果の法則」の教訓的戒めと解釈することができる。

「心で思った通りにこの世界は展開する」ということについて、一体どういう事なのか、ちょっと考えてみよう。自分が心の中で誰かを憎んだとしよう。「人を憎めば」「人を傷つける」と共に、自分が誰かを憎んだ通りに、周囲の人々(誰か)から「自分が憎まれ」「誰かに傷つけられる」という結果を現し出す。それは、原因結果の「因果律」「因果の法則」の働きとして自動的に現し出される。故事に「人を呪わば穴二つ」とあるが正にそれである。自分の心で思った「憎しみ」は、「心の法則(因果の法則)」なる神の法則が、自動的にその心に相応しい姿を現してくれる。それゆえ、結果的に自分自身が「憎しみ」を受け取ることになり、傷つき苦しみの体験をすることになる。こうして「人を憎む」ことはやめた方が良いということが、経験的に知る事ができるのである。

したがって、神から教えられた律法にある通り「なんじ人を憎むなかれ!」ということは真実であるということになる。「殺すなかれ」「姦淫するなかれ」「盗むなかれ」というモーゼの十戒の律法も、キリストが教えた「与えよ、さらば与えられん」も全く同じことを諭しているのである。


6) 「因果の法則」は自分が何者であるかを探すツール


ここまで、旧約聖書の説く律法が、「因果の法則」の教訓的戒めと考えられることを示した。つまり「因果の法則に秘められた法則的神秘性」を、「旧約聖書」では「教訓的戒めとして律法的にまとめたもの」と解釈できる。
そもそも「因果の法則」は、何のため、どこから生じたのであろう? 心で思ったこと(想念したこと)、つまり霊的世界(心の世界)に描かれた想念の雛形(イメージ)にしたがって、それに相応しいものを現象(物質)世界に現し出すことを、「因果の法則」と言う。「自分がどんな思いを心に描いているのか」ということを、確実に知るのは至難の業だ。恐らく、どんな賢者であっても、自分の心の中を完璧には知り得ないだろう。その心の中の想念イメージを、自分自身で客観的に知り得るための素晴らしい道具(ツール)が、「因果の法則」なのだ。時間空間の現象宇宙そのものが、「心の世界に描いたイメージの客観的表示ツール」というようにも解釈できる。

現代社会の道具に例えれば、「コンピューターシステム」のようなものだ。ひとたび人間がシステムに情報を入力すれば、様々なプログラムを介して自動的に処理され、結果を画面やプリンターに表示する。場合によっては、様々な機械装置を自動的に作動させる。実は、この現象宇宙全体が「無限大に広がるコンピューターシステム」のようなものと言えるのだ。とても便利なシステムには違いないが、繊細且つ融通が利かない。間違ったデータを入力すれば、間違えただけの情報結果を歴然ともたらす。間違い入力が多ければ多いほど、とんでもない結果を出すことになる。このことを良く理解した上で、注意深く活用しなければならない。この「コンピューターシステム」も宇宙全体の動作原理たる「因果の法則」も、「素晴らしく便利極まりないシステム」であるが、同時に実に淡々とした「無慈悲」なシステムであることを知っておかねばならない。

「因果の法則」は、人間の心が描いたイメージ(想念)を、客観的に自分で知り得るための必須の道具(ツール)である。この道具(ツール)なかりせば、自分自身の心の中を自ら観察することが不可能になってしまう。同時に、大自然を構成する生命的存在の心のイメージや、他の人々の心のイメージも、「因果の法則」というツールがなければ観察することは出来ないことになる。

「因果の法則」というツールを使って、自分自身や他人や様々な生命の心のイメージを観察することによって、何ができるのか? それは「自分自身」や「他人」や「大自然」が『解る』ということだ。自分と周囲とをはっきり区別し観察することによって、それが「自分らしい」現れかどうかということが明確に判明する。観察し得た「自分らしい」もしくは「自分らしくない」現れの対象を、自分の内から湧き出る「直感」で感じ取ることによって、初めて「自分」というものが如何なるものであるのか、何者であるかが解る。こうして、究極の神秘に一歩近づくことができるのである。「自分というもの」が少しずつ解る事によって、次に心でイメージ(想念)することが、以前より少し「本来の自分らしさ」に近づくことができるだろう。その繰り返しを通して、究極の自分自身を発見し表現することが出来るようになるだろう。旧約聖書では、それを律法という神の教えを通して、「汝かくあるべし」と教訓的に規定し、人々がより早く成長し得るように、生きるべき方向性を指し示そうとしたと考えられる。


7) 「因果の法則」は「神の無償の愛」そのもの


「自分が何者であるか」を探すためのツールが「因果の法則」であることが分かった。さらに「因果の法則」の神秘を探っていこう。究極の自分探しであり、表現するためのツールである「因果の法則」の本質は何で出来ているのだろうか?

「心で思った事が成就する」ということは、「思った人の自由意志が尊重されている」ということを意味している。そこに絶対者たる神が、人間の心が想念したイメージに対して、強制力を使って修正するのであれば、それは「人間の自由がない」事を意味する。その場合、人間は「完全な自由を持たない」「被支配者」「奴隷」に成り下がってしまう。しかし、現象世界を観察すると、神が十戒において規定した律法に人間が背いて、殺人や姦淫や泥棒の罪を犯そうと思えば、その通り行動することが可能である。つまり、神の律法からみて明らかに間違っていようとも、人間は自由に想念を選択し、それに基づいて「因果の法則(神)」はそのまま現象世界に現し出してくれるようになっている。

「人間の選択の自由意志にしたがって、何事でも現し出してくれる」。これは実に素晴らしいことなのだ。実はこのこと自体が、神の「無条件の愛」そのものだということができるのである。仏教に「仏の四無量心」というのがある。「慈・悲・喜・捨」を言う。「慈無量心」は人々に喜びを与え、「悲無量心」は人々の悲しみを取り除き、「喜無量心」は人々の喜びを自分の喜びとし、「捨無量心」は人々に惜しみなく施すことを指している。特に最後の「捨無量心」こそ、最も難しい仏法の道とされているが、これが「無償の愛」であり「無我の愛」であり、究極の愛の形である。人間の選択の自由意志にしたがって何事でも与えてくれる「因果の法則」は、四無量心の究極「捨無量心」の姿そのものと言えるのだ。

つまり「因果の法則」は畢竟「神の無条件の愛」(無償の愛、無我の愛)そのものであると言い得るのである。「無条件」なればこそ、神の律法に反した想念であっても、自由に思い描くことができ、さらに「因果の法則」なる神はそのイメージ通りに現象世界に現し出してくれるのである。これこそが「因果の法則の究極の実態」であると私は断言する。畢竟、「因果の法則」は「神の無償の愛そのもの」であった。つまり、キリストの説いた「神は愛なり」という真理と、旧約聖書の神エホバの「因果の法則」は全く同じ物の両面(裏表)であったとも言いうるのである。

私は、「因果の法則」は「神の無償の愛そのもの」であると結論づけた。旧約聖書のエホバ神は、表面的に観察すると「二元論的冷酷無慈悲」な姿をふんだんに現していた。この解釈のままでは、人間は神を真に愛する事が出来ない事も、前回のブログで指摘した。それが真因となって、様々な悲劇をこの世界に現し出してきたことも指摘した。

しかしながら、けっして旧約聖書をかなぐり捨てる必要はないのである。ただ、旧約聖書に書かれていた事は、「因果の法則という絶対者の法則的側面」であったと言う事実を認識し、次に「因果の法則」が実は「神の無償の愛」そのものであり、それは、人間に体験を通して「自分が如何なる者であったか」という事実を思い出し表現するための、極めて「便利且つ必須のツール」であったことを知れば良いのである。その解釈においては、人間は全てを自由に現し出すことができる「無限力者」であり、「自由人」であり、誰の束縛も受けない「絶対者」であると、言いうるのである。さらに絶対者なる神から、「因果の法則」という「平等心の愛」(無条件の愛)によって「万人は平等に愛されている」ことを知るのである。神に支配される「被支配者」でなかったばかりでなく、「絶対者なる神の無償の愛に満たされた世界で、のびのびと生き続ける、幸福極まりない存在」であることを知るに至るのである。

「因果の法則」は表面的には厳しく「冷酷無慈悲」に映る。したがって、その表面だけの理解に留まる限りにおいて、人々は「因果の法則」を的確に活用する事は難しくなる。「因果の法則」に隠された「神の無償の愛」を見いださぬ限り、人類は「真に神を愛する」ことはできないのかもしれない。「神」を真に愛せぬ者は、結局は「自分」をも真に愛せないのである。自分を愛せぬ者は、潜在意識の奥底で自分を憎んでいる。潜在意識の奥底で自己を憎むものは、精神分析学の祖フロイトが指摘した「自己処罰」「自己破壊願望」にしたがって、自分の運命に不幸をもたらすことになる。どうしても、我々人間は潜在意識の奥底から、神を愛することが必要となるのだ。「神を愛する」ためには、まず「神に愛されている事実に気づく」必要がある。それには「因果の法則に支配されているこの世界」が「神の無償の愛そのものであった」ことに気づく必要がある。

仏教では「観世音菩薩」は人々にとって最も身近であると同時に、非常に慈悲深い存在として愛され続けている。その「観世音菩薩」こそ、「因果の法則」そのものである。「観世音菩薩は人々の心に応じて三十三身に変化(へんげ)して衆生を救済する」と「観音経」に書かれている。つまりその人の心に応じて三十三身(無限)の姿となって周囲の環境に現し出し、人々を救済する仏(神)の姿である。人々はその「観世音菩薩」のもの言わぬ、慈悲と救いの説法によって、自分自身の心の姿を教えてもらう事ができる。どんなに嫌な姿が現れようが、その「観世音菩薩」が現し出してくれたものは、自分自身の心の姿であった事を悟った時、人々は自分の心に隠していた想念感情を知る事ができるが故に、自身が救われるのである。実に「観世音菩薩」は冷厳なる姿を時に現し出すことがあるにしても、最も的確にその人を救済するのである。仏教で説かれるところの「観世音菩薩」は、まさしく旧約聖書の説く「因果の法則」なるエホバ神そのものであり、同時にキリストの説く「愛なる神」そのものであると言えるだろう。アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)においては、「因果の法則」を概ね「冷酷無慈悲」として受け取ったが、仏教においては「慈悲(愛)深き救済」として人々から暖かく歓迎され続けたのである。

日本神道においては、多くの神社のご神体は「御鏡(みかがみ)」である。「鏡」はそれに向かい合った人間の姿をそのままの形で映し出す。何も修正は加えない。人の心の姿をそのままの姿で映し出してくれるのが、日本神道のご神体であるところの「御鏡」である。神は人間の心の選択に対して微塵も修正を加えないのである。そして、日本民族はその「御鏡」の働きそのものを「神」と見た。この宇宙の根本原理(因果の法則)を知っていたのである。故に日本民族は「鏡」のような「心の清らかさ」「誠実さ」「正直さ」を「神そのものの本質」として尊んだのだ。同時に「神」である「御鏡」に映し出される自分自身を「神」として、そのまま拝んだのだ。「御鏡」に映し出された「自分自身」を神として拝み、自分の姿を映し出す「御鏡」も神として拝んだのが、日本民族である。日本民族にとっては、「御鏡(因果の法則)」も「自分自身」も「神」も渾然一体同じきものなのだ。「一体感」それが「愛」である。日本民族は「神」に対しても「因果の法則」に対しても「自分自身」に対しても「愛を感じていた」ということが分かる。だから、日本民族はいつ如何なる時も「心明るく」「幸せ」なのである。潜在意識の奥底に、「神」と「因果の法則」と「自分自身」に対する「憎しみ(※注)」がないためである。

※注)「憎しみ」とは「愛の欠乏感」に過ぎない。

私の結論としては、旧約聖書のエホバ神(因果の法則)は、畢竟、宇宙創造神のエロヒム神と一体であり、キリストの説く「神は愛なり」の神と一体であったのだ。勿論仏教における「観世音菩薩」と同じきものであった。ただ、解釈が未熟であったに過ぎないと言うべきではないだろうか。旧約聖書のエホバ神を「冷酷無慈悲」と見ていたが、本当のところは「神の無償の愛そのものであった」ということである。人間側がエホバ神(因果の法則)に愛を感じず、「冷酷無慈悲」と感じ続けても、エホバ神は決して言い訳もせず未来永劫「無償の愛」であり続けるのである。なぜなら「それが無償の愛」であるからだ。

縷々「ユダヤ起源の諸問題の新犯人探し」裁判の被告席に立たされた「旧約聖書中の神ヤハウェ」が無罪であることを立証した。最後に、真犯人は「神ヤハウェに対する理解不足の人間側の未熟さにある」ことを一言付け加え、被告「神ヤハウェ」に対する弁護側最終弁論は終了する。以後は良識ある陪審員の皆様に判決を委ねたい。

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