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zoom RSS 5/中心帰一 その二 / 「菩薩は何を為すべきか」第九条

<<   作成日時 : 2014/06/17 15:05   >>

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 二回目の「中心帰一」関連の書き込みです。生長の家関連の内容ですので、ご興味のない方はスルーして下さい。


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 生長の家では何かある度に「中心帰一」と幹部はおっしゃる。その根拠は決まって「菩薩は何を為すべきか」第九条にある次の文章を唯一根拠として持ち出すのです。少し長くなりますが引用いたします。

 《第九条 生長の家の各員は、如何に運動の分野が多岐にわたり組織が複雑化するといえども、光明化運動の中心が何であるかを常に見失うことなく明らかに自覚して行動すべきである。生長の家大神−総裁・副総裁−御教。この三つを結び貫く神意の展開が、光明化運動の不動の中心である事を、生長の家人たるものは一瞬たりとも忘れてはならない。如何にその人が有力者であろうと長年光明化運動に献身して来ようと、素晴らしき体験をもつ指導者であろうと、断じてその人を中心にしてはならない。(中略) 光明化運動に於いては人は中心ではない。神意が中心である》(「菩薩は何を為すべきか」より)

 「現象の迷いの否定」を通さないものは、結局はその中に混在している「迷い」を肯定している事になります。現象の「迷い」を峻別する力量の欠如であります。現象というものの本来の存在目的は何かと申しますと、人間が心に描いたものが「三界唯心の所現」なる心の法則によって、完全自動的に現象界に形となって表現されて、観察可能な状態になるということであります。心に描いたものが現象化して、自分自身で鏡のように自分の心が映し出される仕組みが、現象界の仕組みであり、それを通して自身の心の中に入り込んでいた「迷い」の存在を見つけ出し、「迷い」を取り除くことが、現象世界の存在意義でもあります。

 その現象化した姿を自分自身で観察することによってのみ、自分の心の中がはっきりと見えるのであります。現象を通して自分の心が(他人の心も)見える事によって、自分の心(と他人の心)にあった「良いもの」「悪いもの」が峻別できる訳です。即ち心に「迷い」が混在していた場合には、現象をつぶさに観察した上で、その不完全な「迷い」を否定し、排除することが重要となります。その行為を繰り返す事によってのみ、実相世界の完全円満性が現象界に徐々に展開することになるのです。この行為を通してキリストの祈り「御心の天になるが如く地にもならせたまえ」となり、古事記で預言されている天孫降臨の地上天国が実現するのであります。

 ところが、現象化した「組織」のあり方に、盲目的に中心帰一して、その中に混在する「迷い」を否定せずに無視した場合には、当然の事としてその組織は「迷い」が排除されぬままいつまでも混在し続けるということになります。その行為を自分だけでなく部下や信徒にも強要するようになりますと、その組織の関係者は自らの「迷い」を峻別し否定排除する力が喪失し、最後には組織の内に蔓延する「迷い」の毒素によって、自家中毒を起こして死滅せざるを得ないこととなるのです。

 生長の家の総裁であろうと、副総裁であろうと、宇宙の根本の仕組みである「心の法則」から逃れることなどできません。最も大切なことは組織の中心者であるところの総裁・副総裁自身が、徹底的に自己の心の内部に潜む「迷い」を否定し排除することなのです。その中心者の「迷い」の否定と排除が徹底される程度に応じて、それに従う幹部、信徒も「迷い」の否定と排除の徹底が進むのです。そこにも心の法則が働いています。即ち、組織の中心者の心の姿勢、信仰姿勢が、組織の幹部、信徒に波及するということです。つまり組織というものは、中心者の心の展開であるとも云えます。

 翻(ひるがえ)って、《生長の家大神−総裁・副総裁−御教。この三つを結び貫く神意の展開が、光明化運動の不動の中心である事を、生長の家人たるものは一瞬たりとも忘れてはならない》なる言葉の深意を探って見ましょう。この言葉は実は総裁・副総裁自らに「神意」に帰一することを義務づけているということに外なりません。この本は幹部・信徒向けに出版された本でしょうから、幹部・信徒に対しての義務づけ、信仰姿勢を示すものとなっていますが、その根拠の本質は実は、総裁・副総裁の信仰姿勢にこそあるのです。

 「総裁・副総裁の役目を仰せつかっている吾々は、日々神意に中心帰一する信仰姿勢の徹底に心掛けていますので、この組織に協力して下さる皆様方も、どうか神意に帰一して戴きたい」という願いなのです。即ち、総裁・副総裁が神意に中心帰一していることが大前提なのです。この大前提が崩れないことを条件として、この第九条は存立し得るという事なのです。

 当時雅春先生は、その信仰姿勢を貫かれていたということは、十分に考えられます。でなければあれだけの生長の家の唯神実相哲学と、天皇国日本の実相顕現運動、人類光明化運動は展開不可能であったでしょう。戦前戦後の日本の歴史上最大の国難時期にあたって、様々な愛国運動、啓蒙運動、人類光明化運動を起こし、国難をぎりぎりのところで救い得た実績を観るに(今現在も国難は深く社会に浸透しているのですが・・・)、正に奇蹟的であったと云い得るのです。雅春先生にそのような神意に対する中心帰一の徹底した姿勢があればこそ、多くの愛国者を動員し得る「権威」が自然のうちに生まれたのです。

 現象世界は一人一人の心の展開です。それは何人も否定できません。即ちその後の総裁・副総裁の信仰姿勢がどうであったか、その心の姿勢、神意に対する中心帰一の徹底が疎(おろそ)かになる程度にしたがって、その組織は「迷い」を包含し、その「迷い」の否定と排除が疎かになる程度に従って、その組織は「迷い」から脱することが難しくなり、「迷い」の悪循環に落ち入ってしまうのです。勿論総ての原因が総裁・副総裁にあるということでは毛頭ありません。一方に信徒一人一人の心の中に潜在する「迷い」を否定排除していなかったことも原因です。

 その場合、最も大切なことは時の中心者であるところの総裁・副総裁の神意に対する中心帰一の信仰姿勢と、中心者自身に忍び込む「迷い」の混入に対する峻別と排除作用の有無であることは云うに及びません。次に大切な事は、幹部・信徒自身の「迷い」を峻別する力とその「迷い」を否定する力量です。

 生長の家の場合は、終戦後15年経った頃に「菩薩は何を為すべきか」が出版され、組織に対する形式的中心帰一を説き始めてから、幹部・信徒自身の「迷い」に対する峻別力と否定力が欠乏してきたのではないでしょうか。そのことは、組織の自浄作用の力を削いでしまった、ということでもあります。飽くまで中心者自身、自らに潜む「迷い」の混入に対して、徹底的に厳しい姿勢であらねばならなかったのです。

 もちろん、昭和35年当時の日本は、60年安保闘争の真っ唯中。共産革命の波に日本が押し流されようとしていた非常事態であり、悠長な事を言っていられなかった時代背景があります。生長の家の全組織力を賭して日本を救わねばならなかった国家危急の一大事でありました。したがって致し方なかったとは言え、非常に残念ではあります。ある意味、雅春先生は生長の家全組織を捧げて迄、日本を救われようとした尊い行為であったのです。

 中心者自らを戒(いまし)める厳格な姿勢は、当時の総裁・副総裁は実践されていたに違いありませんが、そのことを大前提と見なし、それが永遠変わらざるものであるとの暗黙の前提に立ったところが、事の間違いであったのです。現象世界に不変の絶対性などというものは何も存在しないのです。ただそれを可能ならしめるものは、神意に対する中心帰一と、「謙虚さ」と「迷いの否定」という「自浄作用」を磨き続ける、絶え間ない努力と実践の継続のみであります。

 神意に対する飽くなき努力と実践の継続の誓いこそ、宣言すべきではなかったのでしょうか。このことこそ極めて困難な課題であり、最重要課題なのです。恐れ多い事ではありますが、その観点から拝察しましても、百二十五代に亘る天皇の絶大なる権威の連綿という歴史的事実は、余りにも奇蹟的であり、驚嘆極まりない御存在であると言わざるをえないのです。神意に対する中心帰一と無我を御実践遊ばされた天皇の御姿こそ、万人の否、全世界の手本となるべきものであります。

 生長の家組織においては、残念ながら形の上で半強制的義務として、組織に対する中心帰一という運動上の義務が採用されてしまいました。初代雅春先生の時代であれば、前述した如くそこに「権威」がありましたので、幹部信徒は違和感なく中心帰一しましたが、二代目総裁の時代は権威は徐々に廃れ、さらに三代目に至っては、もはや権威のかけらも感じられず、一挙に組織分裂崩壊に至りました。人は真にも正直なものです。人々を見くびってはなりませぬ。

 教団の中心者自身の心の中に巣食う「迷い」を峻別し否定し得るは、本人以外にはないのです。それを疎かにする者は、いずれ自己内在の「迷い」の毒素によって自家中毒を起こし、自己破壊、自滅崩壊せざるを得ないのは、当然すぎるほど当然なる宇宙の摂理であるのです。その自己破壊は、内部からの催しともなり、又外部からの強烈な攻撃とも現れるのです。なお、内なる迷いを斬り去ることのできない中心者に、盲目的に追従せる者も、真に同類項であると言わざるをえません。お気をつけ下さい。

 中心帰一すべきは、まずは中心者の立場にある者自身であるべきなのです。前述せる如く、この第九条が成立する大前提は、中心者が神意に徹底中心帰一せる「無我」であるということです。ただ、ここで注意すべきは、「神意」なる概念は極めて抽象的であり、それを説く指導者によりどうとでも解釈し得る余地を与えかねないということです。その人が究極何に対して帰一するのか? それを可能ならしめる最後の切り札は「天皇」への中心帰一となって初めて完成するのです。

 絶対無私の御存在であらせられる「天皇」への中心帰一に行き着かぬ宗教、信仰は、「権威」なきものとなり、いずれそこに内包する「嘘」「迷い」が暴露され、消滅せざるをえないこととなります。これは宇宙の摂理なのです。少なくとも日本の宗教にあっては、その点を肝に銘じねばなりません。いずれ、世界中の人々が、絶対無私であらせられる「天皇」の御存在意義を知るに至る事でしょう。先ずは日本人自らが、「天皇」に中心帰一することが求められるのです。特に「天皇信仰」であるところの生長の家の総裁たる者が、その一点にどう対処するかが、最大の注目点であると言わざるを得ません。三代目総裁にこの信仰姿勢は微塵も感じられないどころか、反日、反天皇の言動を始めた事自体、明確に糾弾すべき時期が到来したということになります。

 この期に及んでも頑(かたくな)に「生長の家大神−総裁・副総裁−御教・・・・」を押し付けようと躍起になっている幹部の姿を見聞きするに及んで、如何に神の摂理と、生長の家の実相哲学と、生長の家本来の「天皇信仰」に遠い存在かが窺い知れると云えましょう。生長の家の純真な皆様、いい加減に目を醒しましょう。

 目を醒すのは、「今でしょう!」


追伸)
 余談ではありますが、「菩薩は何を為すべきか」の第九条は、こうすれば良かったのです。

 「第九条 生長の家の総裁・副総裁は、如何に運動の分野が多岐にわたり組織が複雑化するといえども、光明化運動の中心が何であるかを常に見失うことなく明らかに自覚して行動すべきである。生長の家大神−総裁・副総裁−御教。この三つを結び貫く神意の展開が、光明化運動の不動の中心である事を、生長の家総裁・副総裁たるものは一瞬たりとも忘れてはならない。光明化運動に於いては人は中心ではない。神意が中心である。総裁・副総裁たるもの、常に神と現人神であらせられる「天皇」に対する謙虚さと中心帰一を忘れず、自らの心と組織に混在する迷いの種を峻別し否定排除せんことを厳に心掛けねばならない。この運動に協力下さる方々も同様なる心がけを切に希望します。」

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