14/ 「謙りの姿勢」から神が現れる

 今回も生長の家関連の書込みとなりました。興味のない方はスルーして下さい。生長の家が抱える大問題であろうがなかろうか、一切問題の解決は「神を地上に現し出す」ことであります。それには「謙りの姿勢」が不可欠であります。

14-1) 自分の「心労」は、他者の「心労」
14-2) 悪人(悪役)を演ずるのは、善人(善役)を演ずるより大変
14-3) 「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
14-4) 謙(へりくだ)りは、神への入口
14-5) 聖書から見たユダヤ人の真の働き
14-6) 「愛」がある処、「和解」した処にのみ、「神」は現れる

*****************************************************************

14-1) 自分の「心労」は、他者の「心労」

〈14-1-1 自分が感じる「心労」は、周囲の誰かの「心労」である〉
 何らかの原因で苦しい気持ちを自分が受けたということは、その同じ「心の痛み」「心労」を、周囲の誰かが受けていたことを、自分に知らせんがためであると、生長の家では教えています。

 実は、この時期、自分に心当たりのない、得体の知れない「心労」を味わいました。その原因は全く不明でしたが、自分が感じる「心労」は、周囲の誰かの「心の痛み」であり「心労」であるということを、真剣に考えることになりました。私がこの時受け止めたこの「心労」からのメッセージは、「誰かも同じ心労を受けている」ということでしたが、それが誰であるのかは明確に読み解くことは出来ませんでした。

〈14-1-2 現総裁、本部関係者の「心の痛み」「心労」〉
 しかしながら、私にとって今現に問題視している最大の関心事は「生長の家本部赤痢菌事件」であります。つまり、現時点で「誰かの心労」とは、この事件の直接の当事者である処の、現総裁谷口雅宣氏、本部の幹部関係者が、日々背負っているところの大変な「心の痛み」「心労」であると、私は感じたのです。

〈14-1-3 相手の「心労」を理解することが「愛する」こと〉
 この「心労」の苦しみや大変さは、味わった当事者でなければ、決して分からないことだと思います。もし、自分自身が、ある種の「心労」を強く感じることがなければ、本部当事者たちの背負っている「心労」など感じようとはしなかったでありましょう。相手の「心労」を少しでも理解することは、「愛する」ことの第一歩と言えると思います。相手を「理解する」ことなしに、「愛する」ことなしに、「和解する」ことなしに、何かを行うことは、「神」をこの世界に現し出すことの拒否にもなりかねません。

 自分自身が受けた「心労」を切っ掛けとして、私の目前に展開している「生長の家本部赤痢菌事件」の一番の当事者である処の「谷口雅宣総裁」自身の「心の痛み」「心労」を、自分自身がどれほどまで知り得るかということに、意識を集中せざるを得なくなって来たのであります。


14-2) 悪人(悪役)を演ずるのは、善人(善役)を演ずるより大変

〈14-2-1 「悪役を演じる」ことは、大変なこと〉
 現総裁だけに留まらず、本部中枢にて役を演じている全ての方々も、大なり小なり大変な「心の痛み」「心労」を受けておられるに違いないと思うのであります。本来皆神の子ですから、誰からも愛される「善役を演ずる」ことは楽しいことですが、本来の神性を忘却し、周囲から嫌われ批難され敵扱いされてこそ、役割を果たせ得る「悪役を演じる」ことは、さぞかし大変なことでありましょう。『悪人(悪役)を演ずるのは、善人(善役)を演ずるより大変』なのであります。「悪役」を演じている雅宣氏初め幹部の方々は、きっと吾々には想像を絶する大変な心労を背負って、毎日を過ごしておられることでしょう。

〈14-2-2 自分では分からぬままに、より大きな力に動かされている〉
 私は、少しでも彼等の心の痛みを知ることを通して、この問題にアプローチしたいと願わずにはいられません。彼等は彼等なりの「言うに言われぬ理由」があってのことだと思うのであります。その理由を、彼等自身がはっきりと分かっている場合もありましょうが、多くの場合、その理由は自分では分からぬままに、より大きな力に動かされて突き進んでいるのではないでしょうか。

〈14-2-3 思念は、精神波動の類似によって感応する〉
 《・・・ユダヤ民族の世界統一運動こそ、八稚女(やおとめ)を呑みほして、世界を『赤』一色で塗りつぶさんとの運動でありますから、地上に於けるユダヤ民族の世界統一の陰謀(或は無意識的なるその作謀を扶ける行動)などは、ユダヤ民族の守護神(国魂神)の傀儡となっているに過ぎません。そこで、天照大御神を祖神として全世界より祖国として仰がるべき天爾惟神(てんにかんながら)の使命を有せる日本国の神々は、ユダヤ民族の守護神にとっては一大脅威でありますから、まず、日本民族の守護神とユダヤ民族の守護神との間に戦が起るのであります。そして各民族の守護神は神としてのみ互に優劣を決するのではなく、地上の権力の掌握を覘(ねら)っているのでありますから、地上の人間の行動は、天上の各守護神の思念の力によってその傀儡となり、人間自身で考えた行動の如く錯覚しながら、実はその頤使(いし=思い通りに動かすこと)の下に働いているのであります。しかも思念は、精神波動の類似(波長の共鳴)によって感応するのですから、ユダヤ的なる思想をより多く有するものは、ユダヤ民族の守護神の思念波動に左右せられて、知らず識らず日本に不利なる行動をとりつつあり、より多く日本主義的思想を有する者は日本民族の守護神の思念波動に左右せられて、知らず識らず日本に有利なる行動をとりつつあるのであります。地上を見ていれば、人間と人間との葛藤でありますが、その本源を見れば、天の戦であり、ユダヤ民族の守護神と日本民族の守護神との戦いなのであります。》(谷口雅春先生著『古事記と日本国の世界的使命』同書162頁)

〈14-2-4 悪役がいなければ、「戯曲」は成立しなくなる〉
 このように、霊界からの念波の傀儡となって、知らず知らず無意識の内にそのような行動を起こし、結果的にその手先となって働かされている場合がありましょう。傀儡になるということは、その人に同様の心の波長を持っていたことは否(いな)めません。しかし、別の解釈をすれば、天界、霊界で創作された「戯曲」の悪役を、誰かが演じなくてはならず、その悪役を演ずる俳優がいなければ、この「戯曲」は成立しなくなるのでしょう。成立しなければ、その「戯曲」を通して多くの生長の家人に伝えるべき、大切な「教訓」と「真理」を伝えることが出来ずに終るのです。

〈14-2-5 「戯曲」の「教訓」を受け止めたい〉
 その「戯曲」をシナリオに沿って、忠実に役を演じているのが、現総裁谷口雅宣氏と、生長の家幹部諸氏であろうと、私は確信する者であります。その「戯曲」はこの時期、生長の家内部において、必ずや演じる必要があったのでしょう。その「戯曲」の真意を汲み取りたいと、切に願わずにはいられません。そこに示されているであろう「教訓」と「真理」を是が非でも、受け止めねば、悪役を演じて下さっている雅宣氏と幹部諸氏に申し訳が立たぬのではないでしょうか。勿論、現教団に反対されている熱心な誌友信徒諸氏にも、申し訳が立たぬのです。

〈14-2-6 到らなかったのは、私自身であった〉
 すでに、私の心の中では「誰が悪い、彼が悪い」という問題ではなくなっていました。到らなかったのは、私自身であったのです。谷口雅春先生の生長の家立教の精神と、神に対する真摯な祈りの連続であった先生のお気持ちを知らずに、無頓着でいたのは私自身であった、というだけのことでありました。

〈14-2-7 天地一切と和解したとき神は顕れる〉
 誰をも憎まずにいたいものであります。誰をも攻撃せずにいたいものであります。誰をも許したいものであります。その人の奥に隠されている、深く言い知れぬ思いを少しでも知りたいものであります。それが少しでもできた時、神の「愛」をほんの少し知ることに近づけるのではないでしょうか。その時、その人に感謝でき、和解できる瞬間であると思うのです。

 『大調和の神示』の「われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる」この生き方を断固生きたいものであります。


14-3) 「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

〈14-3-1 謙虚な人の方が、仏の慈悲に近い〉 
 親鸞上人曰く「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と。「善人でも極楽往生を遂げるのであるから、悪人が極楽往生できぬわけがない」というような意味であります。「自分は善人である」と思っている人よりも、「自分は悪人だ」と思っている人(謙虚な人)の方が、はるかに仏の慈悲に近いということでありましょう。

〈14-3-2 自分自身が「善人」を演じていた〉
 小生は別に善人とは自認していなかったものの、殊(こと)生長の家に関しては、やはり「善人」を演じていたことを、今振り返って気が付くのであります。「自分は良い(正しい)事をしている」と知らず知らず自分で思っているのです。その反映でしょうか、現在の生長の家総裁を「悪人」と見ている自分があるのです。如何せん「善人」なる己は、人を裁くのは得意中の得意であります。

〈14-3-3 「神の愛」を置き去りにし勝ち〉
 文章を書く時は、なるべく客観的に、真理に照らして書いているつもりでありますが、どうも「神の愛」という面では、よくしくじるのです。そして後で気付く事が多いのです。文章を書くという論理的思考が勝ってしまって、「神の愛」という一番肝心要な思考を置き去りにし勝ちなのであります。これは文章を書くことばかりに限りません。日常生活においても、「神の愛」を置き去りにし、人様を心で裁いていたと、後になってよくよく気付き、自分の到らなさを痛感しているのです。しかし、その瞬間がチャンスなのであります。その時こそ「謙(へりくだ)りの世界」に還ることになるのです。

 私は色々とこのブログで書いてまいりましたが、結局ここに来て、「置き去りにして来た『神の愛』」を書かざるを得ない状況に、自分自身を追い込んでしまったようであります。そして「謙(へりくだ)りの世界」を、真剣に見直すことになりそうです。

〈14-3-4 今までの自分は、「愛」が極端に欠乏していた〉
 やはり、今までの自分には、「愛」が極端に欠乏していたと言わざるを得ないのです。現総裁を論理的に「非難」していることを良しとして、自分自身を「善人」とし、相手側を「悪人」として捉えている心の性癖が見て取れました。これは大変重大なことであります。人の行為を客観的に批判すること自体は、必要なことでもあるのですが、その奥で相手の人格に対して、いつの間にか「悪人」というレッテルを張っている自分がおったのです。「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。この親鸞上人の有名な言葉を思い出したとき、自分の「善人振り」が見えたのです。この言葉を後世に残した親鸞上人は偉大であります。

〈14-3-5 「指摘している己が唯神実相から外れている」大矛盾〉
 では、一体私に何が足りなかったのでしょう。それを端的に申せば、雅宣氏を「神」として拝んでおらなかったということです。「人」として見ていたのです。表面的現象の現れだけを観察して、その表面上に現れた問題点や間違いを批判していたのです。その瞬間、雅春先生の説かれた「唯神実相」から外れている自分がおりました。「唯神実相の雅春先生の教えから雅宣氏は外れている」と指摘しながら、「指摘している己が唯神実相から外れている」という大矛盾を自ら犯していたことに気付けたのです。またしても「謙る自分」を忘れていたのであります。

〈14-3-6 「神の愛」「天地一切は神」に還らざるを得ない〉
 「唯神実相」は哲学的ないい回しですが、もっと平たく申せば、「神は愛なり」「一切は神なり」と言い換えることができると思います。そうなのです。やはり「神の愛」「天地一切は神」というところに還って来ざるを得ないのです。またまた『七つの燈臺の點燈者の神示(大調和の神示)』を思い出さずにはいられません。「汝ら天地一切のものと和解せよ 天地一切のものとの和解が成立するとき 天地一切のものは汝の味方である 天地一切のものが汝の味方となるとき 天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ 汝が何物かに傷つけられたり黴菌や悪霊に冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ・・・」(『七つの燈臺の點燈者の神示』より)

〈14-3-7 相手を礼拝し和解し愛した時神が現れ、相手は「味方」となる〉
 「省みて和解せよ」これが私に課せられた神からの絶対命令であったのです。そうなのです。雅宣氏の「神性」を礼拝するしか、私には道は残されておらなかったということです。すなわち「雅宣氏の実相と和解」し、「雅宣氏を愛する」ということなのです。「天地一切のものとの和解が成立するとき 天地一切のものは汝の味方である」と神示にありますように、相手を礼拝し、和解し、愛した時、神が現れ、相手の存在は「味方」となるのであります。

〈14-3-8 「偉大なる贈り物」を与える「深い愛」〉
 その「味方」とはどういうことを意味しているのでしょうか。様々な解釈が考えられましょうが、「味方となった雅宣氏」は吾々生長の家信徒に、「偉大なる贈り物」を提供してくれる存在なのではないでしょうか。その「偉大なる贈り物」は、見る人によって様々であると思います。それは、「教訓」であったり、「浄化」であったり、「悟り」であったり、「絶体絶命の決意」であったり、「偉大なる贈り物」をそれぞれの観客に与える「深い愛」が、氏の奥に見えるのであります。『観世音菩薩を讃える祈り』に示されているが如く、それはまさしく観世音菩薩そのものの働きであるのです。

〈14-3-9 自己の心の内に『心の模型』がある〉
 《・・・さらに観世音菩薩は、私たちの周囲の人々の姿となって私たちに真理の説法をなし給うのである。意地悪と見える人の姿も、彼が意地悪なのではないのであって、私たち自身の心の何処かに『意地悪』なものがあるのを、観世音菩薩が観じたまうて、それを顕していられるのである。だから他(ひと)を憎んではならないのである。観世音菩薩はあるいは父となり母となり、あるいは良人となり妻となり、あるいは兄弟姉妹となり小姑ともなり、あるいは、社長とも重役ともなり、同僚とも下役ともなりて、常に何かを語り給う。心に耳ある者は聴くべし、心に眼ある者は見るべし。予言者は遠くにあらず、山にあらず、街頭にあらず、今ここにあるのである。私自身の内にあるのである。 自己の想念するところのものが外にあらわれ、自己の信ずるところのものが外界にあらわれ、自己の語るところのものが他者にあらわれるのである。想うこと、信ずること、語ることが予言となって、やがて実現する時期がくるのである。されば私たちは悪しき事、憎むべきこと、暗きこと、消極的なことを想ってはならない、信じてはならない、語ってはならないのである。悪しき事、好ましからざる事があらわれた時には、外に原因を求める以上に、まず自己の心の内に、そのような『心の模型』があるにちがいないと自己反省するのがよいのである。自分の心にある原因を消さないで、外界の火を消そうと思っても、一旦それは消えたように見えていても、火元は自分自身にあるのだから、再びまた他の所から発火するのである。観世音菩薩は尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)の大慈悲の顕現にてありたまう。それゆえに尽十方に満ちたまうのである。・・・ 》(谷口雅春先生著『聖経 真理の吟唱』より)


14-4) 謙(へりくだ)りは、神への入口

〈14-4-1 「高慢さ」を打ち砕くのが「謙りの姿勢」〉
 「謙り」は自己の自我の「迷いの壁」を、打破する強い力があります。自分の中に根強く潜む唯物的迷いから発する「様々な欲」、自他一体の神の愛を自己限定する「利己心」こそ、自己内在の神の子の神性を覆い隠す「罪」であります。これら自己の神性を覆い隠す処の「罪」に気付かずにいることが、「高慢」ということでありましょう。その「高慢さ」はどのように払拭し得るのでありましょうか。それを木っ端みじんに打ち砕いてくれるのが、この「謙りの姿勢」だと思うのであります。

〈14-4-2 富める者、神の国に入る事能わず〉
 《18:22 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 18:23 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。 18:24 イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。 18:25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。》(新約聖書『ルカによる福音書 第18章』より)

〈14-4-3 心の貧しい人は幸いである〉
 《5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。5:8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。》(新約聖書『マタイによる福音書 第5章』より)

 キリストは、「針の穴」の喩えをもって、物欲(高慢)で自らを縛る者が、神の国に入ることの難しさを説かれました。同時に、「心の貧しき人」「悲しんでいる人」「柔和なる人」「義に飢えかわいている人」「あわれみ深い人」「心の清い人」を祝福されています。この人たちは、「謙(へりくだ)りの心を持っている人」と解釈できると思います。

〈14-4-4 「絶体絶命」が「謙り」を生み、「高慢さ」を打ち砕く〉
 私は往々にして、高慢になり勝ちであります。その瞬間、神から一番離れていることになります。しかし、その時の自分は「自分が正しい、立派だ」という立場に立って、人様を見下し、心で裁いているものです。そして、そのこと自体、その時の自分は全く気付いていないのです。そういった自分の心の中の「高慢さ」を、木っ端みじんに打ち砕いてくれるのが、外的ショックによる「悲しみ」であり、「絶望感」であり、「無力感」なのであります。自分ではどうすることもできない「絶体絶命」が「謙り」を生み、自分の心に巣食っていた「高慢さ」を、打ち砕いてくれるのです。

〈14-4-5 「謙り」は「神への絶対服従」の道を開く〉
 何回も何回もこのような経験を続けると、自分(現象人間)の醜(みにく)さにつくづく嫌気がさしてきます。「もう、嫌だ」「もう、二度とこんな思いをしたくない」「もう、自分では生きられない」とさえ思えて来ます。その時こそ、私も「謙り」を体験させてもらっているのでしょう。「謙り」は「神への絶対服従」への道を開いてくれるのです。何故なら、「謙り」は「自我」を働かせて生きることの空しさ、その空しさを体験した者がなし得る「神への全托」、そしてそれ以外には生きる道がないことを知らせてくれるからであります。同時に、人々への「愛」と「赦し」の心を、蘇(よみがえ)らせてくれるのです。


14-5) 聖書から見たユダヤ人の真の働き

〈14-5-1 新約聖書『ローマの使徒への手紙』の不思議な言葉〉
 新約聖書『ローマの使徒への手紙』に、なんとも不思議な言葉があります。私が以前ユダヤ問題の謎を考えていた時に見つけたものです。それはユダヤ問題に対する、ある種の「答」とも言えるものと解釈しています。聖書から引用させていただきます。

 《イスラエルの再興 11:25 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、 11:26 こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。 11:27 これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」 11:28 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。 11:29 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。 11:30 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。 11:31 それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。 11:32 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。 11:33 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。 11:34 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。 11:35 だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」 11:36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。》(新約聖書『ローマの使徒への手紙』第11章)

〈14-5-2 「人類の財産を略奪する」ユダヤ勢力の目的は何か〉
 世界のあらゆる事件、問題に根底から介在しているのが、ユダヤ勢力であります。このユダヤ勢力につきましては、谷口雅春先生も、前掲した『古事記と日本国の世界的使命』で書かれている如く、地球規模的な大問題であると考えられるのであります。このユダヤ勢力の目的は何かと申しますと、端的に言えば、「人類の財産を略奪する」処にあるのです。このことはとても悲惨な大事件に見えるのでありますが、霊的神的に解釈して見ますと、「人類に潜む唯物思想(自我)という迷い」を、破砕することが目的であると解せるのであります。

〈14-5-3 「迷い」に囚われて「神我」を眩ます限り、人類は苦しみ続ける〉
 それは何故かと申しますと、「唯物思想」とは「物質有り」「肉体有り」という妄想から発しており、様々な我欲や傲慢な意識、つまり一切の「迷い」の源泉であります。その「迷い」に囚われて「神我」を眩ます限り、人類は「迷い」から生ずる無数の苦しみから逃れることはできないのです。それを救済せんがために、ある種の強制力をもって、それに気付かせる為の慈悲の働きだと、考えられるのであります。

〈14-5-4 人類を「謙り」に導く為に、財産・権力を破壊する〉
 ある人の心に「唯物思想」が潜んでおりますと、それを砕破させる為により強力な「唯物思想」を持って、その人の「唯物思想(自我意識)」という迷いを、徹底的に破壊してしまうのであります。その「唯物思想(自我意識)」という「迷い」の破壊は、「神への絶対服従」「神への全托」である処の「謙り」の心から生ずるのです。人類に「謙り」を体験させんが為に、ユダヤ勢力は相手の財産・権力を破壊する総攻撃を仕掛けている、と解釈し得るのです。つまり、物質欲(高慢)を持った人類が、他者(ユダヤ勢力)からの強制力によって、財産、土地、権力、地位、名誉等の諸権利を剥奪(はくだつ)された時、はじめて人類の欲心が破壊され、謙りの姿勢が生まれるということです。

 こうして、ユダヤ勢力の強烈なる「唯物攻撃」を通して、人類の心の中に潜んでいる「唯物思想」という「迷い」の念が、消え去って行くのであります。このように理会した場合に、前述した『ローマの使徒への手紙』第11章の聖句が、理会し得ると思うのです。

〈14-5-5 人類の救いのためにユダヤ人は、頑な役割を演じている〉
 「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり」とありますように、人類の救いのためにイスラエル人(ユダヤ人)は、あえて「頑(かたく)な役割」を演じているのです。「11:30 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼ら(イスラエル人)の不従順によって憐れみを受けています。」つまり、人類が不従順(自己の神性を自覚せずに迷っている状態)であったがために、神に愛されているイスラエル人の子孫が、一時的に神性を隠蔽して(不従順になって)、人類に潜む「神性隠蔽」を破砕せんが為に、圧倒的力をもって吾ら人類の自我を叩き潰し、その苦しみの感情から「謙りの心」を起こさしめ、神の憐れみ(祝福)を受けられるように仕組まれていたことを、この聖句は物語っていると思うのです。


14-6) 「愛」がある処、「和解」した処にのみ、「神」は現れる

〈14-6-1 生長の家人も「謙りの心」に立ち返り、神の憐れみを受ける〉
 このことは、此の度の「生長の家本部赤痢菌事件」と、全く同じことを言い表しているのです。神から愛されている谷口雅春先生直系の「お孫さん」が、「神に不従順」となっているのであります。このことにより、生長の家人は、谷口雅春先生の聖典の出版と使用が極端に制限され、本部会館は喪失し、生長の家教団の財産はなくなり、本来の教えは大きく歪んでいます。

 多くの生長の家人は、これによって、各々が頼りとしていた「教団組織、総裁」という形の世界から切り離されてしまいました。今生長の家人は、一人一人の心の中で、言うに言われぬ屈辱感や悲しみや憤りの観念に苦しみもがいています。それは、前述した、ユダヤ人の強烈な「唯物攻撃」によって、「人類の唯物意識(自我意識)」が破砕されつつあるのと、同じであると考えられるのです。人類はその屈辱を通して「謙りの心」に立ち返ることにより、神から憐れみ(祝福)を受けることが、決定付けられているのであります。同様に、生長の家人も「謙りの心」に立ち返ることによって、神からの憐れみ(祝福)を受けることになると信ずるものであります。

〈14-6-2 「ユダヤ問題」も「生長の家問題」も神の恩寵〉
 これこそ、神の恩寵(おんちょう)でありましょう。私は、人類最大の問題である「ユダヤ問題」について、これを神の恩寵と見、神の憐れみと祝福を受けるための道であると信ずるものであります。同時に、「生長の家本部赤痢菌事件」も、神の恩寵であり、神の憐れみと祝福を受けるための、神霊の計画せるものであると思うのです。

〈14-6-3 謙りの姿勢に還り、神に無条件降伏する〉
 そこに至るための問題解決方法は、唯一つであります。「謙りの姿勢に立ち還り、神性隠蔽している一切の迷いの観念を捨て去り、神に無条件降伏する」ことでありましょう。その時、内なる「実相の神」が吾等を通して燦然と輝くに違いありません。

〈14-6-4 相手を真に愛すること〉
 「謙りの姿勢に立ち返り、無我の心となって、神に全托する」という行為は、「相手を真に愛する」ということであり、「相手の実相に和解する」ということでもあると思います。下記『マタイによる福音書 第5章』で、イエスは敵対する者にさえ「愛し」「祈れ」と命じています。現在置かれている吾ら生長の家人のお手本とすべき処ではありませんか。

〈14-6-5 敵を愛し、迫害する者のために祈れ〉
 《5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。5:39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
5:40 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。5:41 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。5:42 求める者には与え、借りようとする者を断るな。5:43 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。5:44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。》(新約聖書『マタイによる福音書 第5章』より)

〈14-6-6 「愛」の無い処に「神」は決して現れない〉
 これらのイエスの言葉は、全て「愛の実践」への絶対命令であります。歯向かう者、抵抗する者、逃げる者、憎む者、戦う者は、相手を真に愛していないことになります。「愛」の無い処に「神」は決して現れないことを、イエスはよくよく御存知だったのでしょう。敵対せる者であっても「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と明言されています。このレベルの愛は、実に相手の実相を拝む深い愛であり、実相との和解とも言えましょう。生長の家における《汝ら天地一切のものと和解せよ・・・汝が何物かに傷つけられたり黴菌や悪霊に冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ・・・われを招(よ)ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ われは愛であるから 汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる》という『大調和の神示』の聖句と全く同じ意であります。

〈14-6-7 「愛」がある処「和解」した処に「神」は現れる〉
 このイエスの説いた「愛の実践」、『七つの燈臺の點燈者の神示』に示された「天地一切のものと和解せよ」。これら「愛の実践」も「和解の実践」も、「神の実践」という意味において全く同じであります。「愛」がある処にのみ、「神」が現れ、「和解」した処にのみ、「神」は現れることを端的に示していると言えるのです。神を地上に現し出す事のみに、己の精魂を傾けて生きたいと願わずにはいられません。神さえ現れれば、それだけでいいのであります。外に何もいらないのであります。そのためにも「謙りの姿勢」を一時たりとも忘れてはならないのです。

*****************************************************************

【まとめ】14/「謙りの姿勢」から神が現れる

14-1) 自分の「心労」は、他者の「心労」
〈14-1-1 自分が感じる「心労」は、周囲の誰かの「心労」である〉
〈14-1-2 現総裁、本部関係者の「心の痛み」「心労」〉
〈14-1-3 相手の「心労」を理解することが「愛する」こと〉

14-2) 悪人(悪役)を演ずるのは、善人(善役)を演ずるより大変
〈14-2-1 「悪役を演じる」ことは、大変なこと〉
〈14-2-2 自分では分からぬままに、より大きな力に動かされている〉
〈14-2-3 思念は、精神波動の類似によって感応する〉
〈14-2-4 悪役がいなければ、「戯曲」は成立しなくなる〉
〈14-2-5 「戯曲」の「教訓」を受け止めたい〉
〈14-2-6 到らなかったのは、私自身であった〉
〈14-2-7 天地一切と和解したとき神は顕れる〉

14-3) 「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
〈14-3-1 謙虚な人の方が、仏の慈悲に近い〉 
〈14-3-2 自分自身が「善人」を演じていた〉
〈14-3-3 「神の愛」を置き去りにし勝ち〉
〈14-3-4 今までの自分は、「愛」が極端に欠乏していた〉
〈14-3-5 「指摘している己が唯神実相から外れている」大矛盾〉
〈14-3-6 「神の愛」「天地一切は神」に還らざるを得ない〉
〈14-3-7 相手を礼拝し和解し愛した時神が現れ、相手は「味方」となる〉
〈14-3-8 「偉大なる贈り物」を与える「深い愛」〉
〈14-3-9 自己の心の内に『心の模型』がある〉

14-4) 謙(へりくだ)りは、神への入口
〈14-4-1 「高慢さ」を打ち砕くのが「謙りの姿勢」〉
〈14-4-2 富める者、神の国に入る事能わず〉
〈14-4-3 心の貧しい人は幸いである〉
〈14-4-4 「絶体絶命」が「謙り」を生み、「高慢さ」を打ち砕く〉
〈14-4-5 「謙り」は「神への絶対服従」の道を開く〉

14-5) 聖書から見たユダヤ人の真の働き
〈14-5-1 新約聖書『ローマの使徒への手紙』の不思議な言葉〉
〈14-5-2 「人類の財産を略奪する」ユダヤ勢力の目的は何か〉
〈14-5-3 「迷い」に囚われて「神我」を眩ます限り、人類は苦しみ続ける〉
〈14-5-4 人類を「謙り」に導く為に、財産・権力を破壊する〉
〈14-5-5 人類の救いのためにユダヤ人は、頑な役割を演じている〉

14-6) 「愛」がある処、「和解」した処にのみ、「神」は現れる
〈14-6-1 生長の家人も「謙りの心」に立ち返り、神の憐れみを受ける〉
〈14-6-2 「ユダヤ問題」も「生長の家問題」も神の恩寵〉
〈14-6-3 謙りの姿勢に還り、神に無条件降伏する〉
〈14-6-4 相手を真に愛すること〉
〈14-6-5 敵を愛し、迫害する者のために祈れ〉
〈14-6-6 「愛」の無い処に「神」は決して現れない〉
〈14-6-7 「愛」がある処「和解」した処に「神」は現れる〉

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 7

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた 驚いた
ナイス

この記事へのコメント