32/〝個人救済〟も〝環境問題解決〟も、「生命の実相」の悟りの随伴的〝おまけ〟に過ぎない

谷口雅宣氏の『〝個人の救い〟は自然との調和の中に』を考察する-2


32-1) 生長の家の意義は、「生命の実相」の真理を鳴り響かす事

 引き続き、谷口雅宣氏の『〝個人の救い〟は自然との調和の中に』の論文に対する考察を行います。《生長の家は、決して“個人の救い”をやめたのではありません。雅春先生の時代からずっと継続的に、各地の練成会や練成道場や誌友会の場において、“個人の救い”のためにも真剣に取り組んでいます。しかし、今日の運動では、“個人”を自然から切り離して考えるのではなく、「自然と人間との関係において捉える」という、より大きな視点をもって取り組んでいるという点が、違うといえば違うのです。》(谷口雅宣著「生長の家総裁ブログ」『〝個人の救い〟は自然との調和の中に』より)

 《雅春先生の時代からずっと継続的に、各地の練成会や練成道場や誌友会の場において、“個人の救い”のためにも真剣に取り組んでいます。》と書かれていますが、生長の家の各地の練成会や練成道場や誌友会の意義は、「実相独在」「現象無し」「物質無し」の「生命の実相」の真理を鳴り響かす事であります。

 「生命の実相」を自覚すれば、一切の問題が自ずと解決するのであって、〝個人の救済〟というのは、随伴的現象に過ぎません。「生命の実相」を覆い隠している事が、「迷い」であり、全ての問題と混乱と不調和の原因なのです。このことは、生長の家人にとっては基本中の基本であります。

 形の上における〝個人の救い〟を、決して否定するものではありませんが、〝個人の救済〟が真の目的なのではなく、あくまで「生命の実相」の真理の自覚が目的なのであります。〝個人の救い〟というのは、〝方便〟にすぎません。谷口雅宣氏は、生長の家の練成会や誌友会の根本的なあり方を、勘違いしているのでしょう。どうみても理解しておられないようです。

 〝個人の救済〟にしても、〝自然との調和〟にしても、「既に実相世界において実在している」ことを悟るのが、生長の家です。「生命の実相を悟る」ことによって、自ずと〝個人の救済〟となり、〝自然との調和〟ともなるのです。


32-2) 〝個人の救済〟も〝環境問題解決〟も、「生命の実相」の悟りの随伴的〝おまけ〟に過ぎない

 〝個人の救済〟でありましょうが、〝家庭の救済〟でありましょうが、〝社会の救済〟でありましょうが、〝国家の救済〟でありましょうが、〝人類の救済〟でありましょうが、〝自然との調和〟でありましょうが、全ての問題の解決は、「生命の実相」を自覚することによって、随伴的な結果として現れて来る〝おまけ〟です。

 何故かと申せば、〝個人の救済〟も〝家庭の救済〟も〝社会の救済〟も〝国家の救済〟も〝人類の救済〟も〝自然との調和〟も、全ての問題解決の根本となるものは、「一切万象は悉く、既に今此処に、神の御心の顕現として、完全円満の実相世界が実在している」というのが、「生命の実相」だからであります。

 「生命の実相」の悟りから発する、「人間の実相」「国家の実相」「森羅万象の実相」「宇宙の実相」・・・を解き明かし鳴り響かせているのが、「生長の家の意義」であります。

 この「生命の実相」の真理を自覚する機縁となるのが、生長の家の練成会や練成道場や誌友会であるということになります。その真理を自覚し得た時、忽然と現象世界が変貌して、大調和の世界が映し出される事になります。如何なる現象的問題解決も、随伴的〝おまけ〟に過ぎません。


32-3) 実相世界においては、個人も自然も一体の生命的、霊的実在である

 続けて谷口雅宣氏は、《今日の運動では、“個人”を自然から切り離して考えるのではなく、「自然と人間との関係において捉える」という、より大きな視点をもって取り組んでいるという点が、違うといえば違うのです。》と記しています。この主張を読み解けば、「昔の運動は、〝個人〟を〝自然〟から切り離して考えていた」ということを暗に指摘していることを意味します。これは全くおかしい見方であると言えるでしょう。元々谷口雅春先生の説かれた「生長の家」は、《“個人”を自然から切り離して考える》などという事は全くありません。

 「生長の家」の「生命の実相哲学」の視点は、「神より一切が生じる世界観」であり、「実相世界においては、全ては一体の生命的、霊的実在である」という見方であります。《“個人”を自然から切り離して考える》等と言う唯物的、現象的視点に立ってはいないのです。

 従って、《今日の運動では、“個人”を自然から切り離して考えるのではなく、「自然と人間との関係において捉える」という、より大きな視点をもって取り組んでいるという点が、違うといえば違うのです。》という主張も、行間に隠されている「昔の運動は、〝個人〟を〝自然〟から切り離して考えていた」という指摘も、全く間違っていると言わざるをえません。

 谷口雅宣氏が言う所の、《“個人”を自然から切り離して考える》と言う発想自体が、唯物的、現象的見方であり、その視点そのものが、既に間違っているのです。



32-4) 「自然と人間との関係において捉える」という発想自体が「唯物的視点」である

 「自然と人間との関係において捉える」という発想自体が、既に「自然」と「人間」とを分離した別物として捉えているのであり、その見方そのものが「唯物的視点」なのです。「生命の実相哲学」の視点は、「神(真我・実相)」が唯一あるのであって、そこから「自然」も「人間」も自在に現れて見えているに過ぎません。視点が全く逆です。

 《より大きな視点をもって取り組んでいる》と書かれていますが、谷口雅宣氏が称えるその視点は「唯物的見方」であり、「現象的見方」であります。つまり、「無いものを在るとみている〝迷い〟の視点」であります。従って、《「自然と人間との関係において捉える」という、より大きな視点をもって取り組んでいる》と言いましても、所詮「現象世界」の側から〝少しばかり大きな視点〟と頑張っているだけのことです。「現象世界」は「本来無い(幻の)世界」でありますから、その様な見方をしているようでは、諸問題の抜本的な解決には至らないのです。逆に「迷い」が深まるばかりです。

 物質的に観察すれば、「物質的人間」よりも「物質的自然」の方が、物理的に大きいと見えるでしょう。しかし、その見方そのものが、既に「迷い」です。「生長の家」の観方は、「物質は無い」のであって、実在しているのは「神(生命)と神の世界」でありますから、〝自然〟と〝人間〟を比較したり、《関係において捉える》という頭脳智的発想とはならないのです。

 西欧の唯物論では、その様な「人間と自然との比較や関係性を研究する」思想がありますが、東洋、特に日本では、「人間も自然も〝神〟として拝む」生き方を古来よりして来たのです。「拝む」とは、「人間も自然も〝神〟であって一体である」という、「実相世界を心で観る」事を意味しています。

 人類は今まで、「現象有り」「物質有り」の迷いに囚われた上で、「現象的な解決」を試みてきたのですが、結局は抜本的解決を見出す事ができなかったのです。そこで人類を救う(迷いを打ち砕き、実相に目覚めさす)為に神が使わしたのが、釈迦でありキリストであったのです。そして、現代において谷口雅春先生として現れて、「生命の実相哲学」「唯神実相哲学」を説く事により、抜本的解決の道が開かれたのではなかったのでしょうか。


32-5) 「無我の修行」により「現象人間の〝自我の意識〟」を粉砕する

 結局のところ、《“個人”を自然から切り離して考える》と見ているのは、谷口雅宣氏自身だったのです。自分の思想の範囲(限界)でしか、他人の思想を理解できないのは、仕方のないことでありますが、自分自身の無理解から生じた〝間違い〟であることに気付かねばなりません。

 自分の境地よりも、谷口雅春先生のお悟りの境地が遥かに高いことを、謙虚に認めることが何よりも大切です。信仰において最も危険となるのは、〝増上慢に陥る〟ことです。「無我の心境」にて、先達(谷口雅春先生)の教えを〝素直に〟受け取ることなくして、自身の悟りを深める事はできません。生長の家総裁という立場を取るならば、尚更の事です。人間は現象的には、ある意味において、常に不完全であります。故に「無我の修行」がどうしても必要となります。「生命の実相」を悟る為には、どうしても「現象人間の〝自我の意識〟」を粉砕しなければなりません。

 「現象人間の〝自我の意識〟」を粉々に粉砕し得た時、「無我の心境」に入り、「無我(現象無し)」の奥から「真我(生命の実相)」が現れます。その時、忽然と「生命の実相」の悟りの自覚に入る事になります。古来より多くの修行者達が、経典の勉強・思索と、座禅等の精神統一と共に、死に物狂いの厳しい「無我の修行」を重視してきた由縁です。生長の家におきましても、「生命の実相」の真理を学ぶ事と、神想観の実修と共に、愛他行(無我の修行)が尊ばれるのは、その為であります。


32-6) 「自然・環境・地球」と立派な事を叫ぶ前に為すべき事

 谷口雅宣氏の様に、「現象有り」「物質有り」の迷いの視点で、《「自然と人間との関係において捉える」という、より大きな視点をもって取り組んでいる》と言われましても、はっきり申し上げて、何の解決にもなりません。谷口雅宣氏自身では、「生長の家の総裁として自分は真理を知っている(つもり)」と思っておられるのかもしれませんが、とんでもない勘違いをしているのです。

 まずは謙虚な態度と、無我から始めることです。「自我を殺す」ことが先決です。「自我を殺せない」でいると「内なる神を殺す」ことになります。それでは生長の家総裁の任どころか、「神の子としての使命」は務まりません。「親・兄弟家族の為」「人々の為」「天皇の為」「国家の為」に死に切れない様な人物が、「神の使命を果たす」事が出来るはずもありません。

 口でいくら「自然」「環境」「地球」と立派な事を叫んでみても、もし親兄弟家族、先達、周囲の人々、国家、天皇を尊敬し感謝し愛することができなければ、所詮〝砂上の楼閣〟です。《「自然と人間との関係において捉える」という、より大きな視点をもって取り組んでいる》と意気込む前に、まず「家族・隣人・周囲との和解」を達成させねばなりません。何事も自分の〝足下(想い)〟から始まります。

 『大調和の神示』には次の様に示されています。《汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。汝が何物かに傷つけられたり黴菌や悪霊に冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。われ嘗て神の祭壇の前に供え物を献ぐるとき、先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。汝らの兄弟のうち最も大なるものは汝らの父母である。神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である。本当の和解は互いに怺え合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。感謝し合ったとき本当の和解が成立する。神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波を能う受けぬ。皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。天地の万物に感謝せよ。その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。われは此処に見よ、彼処に見よと云うが如くにはいないのである。だからわれは霊媒には憑らぬ。神を霊媒に招んでみて神が来ると思ってはならぬ。われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる。》(谷口雅春著「『七つの燈台の点灯者』の神示」(大調和の神示)より)

 この『大調和の神示』にあるように、「生長の家」は「感謝と和解」の教えです。この「感謝と和解」を我がものとした時、例えどんな人であっても「神の子」として、「生命(神)の実相」が現れるのです。


   (平成29年12月13日 © あまむし庵)

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