34/《谷口雅宣氏の〝信仰〟と〝運動〟は、唯物的思想である》

谷口雅宣氏の『〝個人の救い〟は自然との調和の中に』を考察する-4

34-1) 生長の家本来の思想は「神と自然と人間は一体である」

 引き続き、谷口雅宣氏の『〝個人の救い〟は自然との調和の中に』の論文に関する考察を続けたいと思います。《そういう広い視野で現代の様々な問題をとらえて、「神・自然・人間の大調和」を訴えているのが生長の家の運動です。ですから、自分の悩みの根源について深く理解せずに、狭い周辺のことしか考えない人にとっては、生長の家の運動は“個人の悩み”を軽視していると見えるかもしれません。しかし、思い出してください。生長の家の教えでは“個人”などという肉体的に孤立した人間など、ニセモノだと説いているのです。「人間は神の子である」という教えは、バラバラな存在としての「個」なるものは、あくまでも仮の姿であって、実相ではないと否定しています。なぜなら、神はすべてのすべてだからです。その御徳をすべて譲り受けている神の子同士は、バラバラの“個”であるはずがないのです。皆さんはぜひ、この教えの一部分だけを見て、「これが生長の家だ」と限定してしまわないようお願い致します。そして、谷口雅春先生は、この自然豊かな長崎の地で晩年を過ごされながら、公私両面から自然と調和した生き方を実践されたことを忘れずに、「神・自然・人間の大調和」実現に向かって、喜びをもって進んでいこうではありませんか。雅春先生の御生誕日に当たって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。 谷口雅宣》(谷口雅宣著「生長の家総裁ブログ」『〝個人の救い〟は自然との調和の中に』より)

 ここに、《「神・自然・人間の大調和」を訴えているのが生長の家の運動です。》と書かれています。この《「神・自然・人間の大調和」を訴えている》という言葉には、大きな違和感を感じます。何故かと言いますと、「神」の顕現が「自然」と現れ、「人間」と現れているのであって、元々「神」も「自然」も「人間」も一体であるからです。本来一体であるところの「神・自然・人間」を対立的に見立てて、《「神・自然・人間の大調和」を訴えている》というところに、本質的な問題があります。

 何故、《「神・自然・人間の大調和」を訴えている》という発想が生じるかと言いますと、谷口雅宣氏の考え方が、「神と自然と人間はバラバラである」という、現象の観察に基づいた思想がある為にこうなるのです。ここに最大の問題があります。それは、西洋的「神と自然と人間との対立関係」を大前提とした「二元論思想」に基づいているということなのです。「神と人間との契約」を前提として築き上げたのが、ユダヤ教の『旧約聖書』の思想です。『旧約聖書』をベースにした西洋文明は、「神と自然と人間」を対立的に見ているが故に、「神と人間の関係」は「支配・被支配」の関係に基盤を置く「契約」として認識され、「人間と自然との関係」は、「支配・被支配」の関係に立つ「征服」として認識されています。これらの考え方は、全て「現象的(唯物論的)観察」であり、生長の家本来の「実相独在」の観方とは決定的に違っています。

 その西洋文明(『旧約聖書』の唯物的思想)の世界観に基づいて、調和をもたらそうという発想が、《「神・自然・人間の大調和」を訴えている》という考え方になります。日本精神は、「神と自然と人間は、元々一体である」という思想に基づいていますから、そこからは《「神・自然・人間の大調和」を訴えている》というような発想は生まれて来ないのです。「これから大調和を実現しよう」という発想は、全て「不完全な現象を如何に良くするか」という思想であり、決してそこからは、本質的な解決は生まれないのです。谷口雅春先生の称えられた「生命の実相哲学」は、「既に完全な大調和が、実在世界に完成している」ことを認識する生き方なのです。断じて、「現象の不完全を如何に良くするか」という思想ではない事を、肝に銘じるべきです。


34-2) 谷口雅宣氏は、「実在の人間」について全く触れようとしない

 《「人間は神の子である」という教えは、バラバラな存在としての「個」なるものは、あくまでも仮の姿であって、実相ではないと否定しています。なぜなら、神はすべてのすべてだからです。その御徳をすべて譲り受けている神の子同士は、バラバラの“個”であるはずがないのです。》というのは、「人間神の子」の教えを谷口雅宣氏なりの解釈で説明したもののようです。

 この文章の意味を表面的に捉えると、生長の家の真理に穿ったような解説をしているようにも見えますが、《バラバラな存在としての「個」なるもの》と書かれている「人間(個)」の捉え方が、そもそも本質的に間違っていると言えるのです。その根底にある間違いのポイントとは、「人間の捉え方の問題」なのです。

 谷口雅宣氏の場合、「人間」というものを、《バラバラな存在としての「個」なるもの》としての捉え方をしています。その上で、《「個」なるものは、あくまでも仮の姿であって、実相ではないと否定しています。》と言うように、「個としての人間」を否定しています。では、「否定されざる実在の人間」が、如何なるものであるか、という実在の真理については、全く触れようとしていません。これでは人々を惑わすだけであります。

 「否定されざる実在の人間」については、谷口雅春先生は聖典『生命の實相』の随所にお説き下さいました。それが「現象人間(現象)の完全否定」と「人間は神の子(神)である」という「生命の実相」の真理であります。「神我は一体」なのであり、「個」と見えれども「全」なのであります。

 谷口雅宣氏は、「実在の人間」についての的確なる真理を述べる事ができずに、「自然保護運動」や「反原発運動」や「護憲運動」や「反日左翼運動」という「唯物論に基づく地球環境至上主義(国際主義)的信仰」に人々を導こうとしています。今回の氏の論文に於いては、「人間の実相」を説く事もできず、「自然との大調和」等という現象的思想(プロパガンダ・左翼反日思想)に誘導している事が分ります。

 谷口雅春先生がお説きになられた生長の家本来の見方は、谷口雅宣氏の見方とは全く違います。『バラバラな存在としての「個」のように見えている現象人間』は一刀両断否定して、「人間」というものを「生命」「霊的実在」「神性」「神」「実相」として直感把握する、その根本的視点の大転換が、生長の家の見方であります。「現象の人間」を全否定(現象否定)した上で、「実相の人間」を全肯定しなければなりません。この「現象否定」と「実相肯定」を為し得るのが、生長の家の生き方であります。

 このように、唯物論に立脚している谷口雅宣氏は、「一即多、多即一」の真理が解り得ないのです。《「個」なるものは、あくまでも仮の姿であって、実相ではない》という見解などは、生命の実相の真理を知らない半可通です。「仮の姿」で「本来無い」のは「肉体(現象)」のことであり、「自我(自分が〝個〟として他人とバラバラだと思っている、迷いの自我意識)」のことであります。その「肉体」と「自我」は本来無いのですから、否定して良いのですが、「個生命」として存在している「真我」は「神の子」であり、「主体」そのものでありますから実在しているのです。

 つまり、「真我」は実在しており、それは「個」として現れている「神」であります。「神」は「全」であると同時に「個」なのです。「一即多、多即一」です。谷口雅宣氏は「個」として現れている「実在の人間」が如何なる存在であるか、という一番大切なポイント(生命の実相)を説く事ができないでいるのです。


34-3) 谷口雅宣氏の「〝神の子〟論」は、「唯物的〝神の子〟論」である

 谷口雅宣氏は続いて、《なぜなら、神はすべてのすべてだからです。その御徳をすべて譲り受けている神の子同士は、バラバラの“個”であるはずがないのです。》と解説しています。この見方が既に「現象的、唯物的見方」なのです。次にその説明をいたします。この思想の根幹にあるものは、「神」と「神の子」を、対比的に観察している「二元論」の問題を孕んでいます。「神の子」は「神」から「御徳を譲り受けている」という見方は、一見正しいように見えるかもしれませんが、丁寧に見て行きますと、正しい見解でないことが分ります。

 谷口雅春先生が御説きになった「生命の実相」に基づく正しい見方は、「神の子」は「神」と一体であるのであって、「神の子」は「神」から「御徳を授かっている」という主従的(対比的)見方は正確ではないのです。ここに谷口雅宣氏が抱いている「神」と「人間(神の子)」との主従的関係、対立的関係、現象的対比、二元論的思想が根強く存在していることが窺い知れるのです。これらの思想の根底にあるものは、「唯物論」であることを知らなければなりません。

 この「神」と「人間」との対立的関係(唯物論)を抱いている限り、谷口雅春先生の説かれた「生命の実相」哲学的、〝神我一体〟の境地には到らず、現象的、唯物的見方が混在することになるのです。生長の家本来の思想は、「神我一体」「一元論」的思想が根幹であるのです。

 すなわち、谷口雅宣氏の「〝神の子〟論」は「唯物的〝神の子〟論」ということが言えるのです。「神」は「生命」です。「個」として現れて見える「人間」の本質も「生命」です。「生命」は形なく、有限そのままに無限であります。この見方は、唯物的頭脳智では理解できませんが、「生命」の世界は、「形の世界」ではありませんので、「現象的矛盾」を超越しているのです。


34-4) 「真我としての〝個〟」は、「個にして全」「有限にして無限」である

 人間の「個生命」は、霊的実在であり、神の自己実現であります。故に「個にして全」「有限にして無限」であります。このことについて谷口雅春先生は、『真理の吟唱』の「有限そのままに無限を悟る祈り」で次の様に示されています。

 《人身このまま有限にして内に無限を蔵す。蔵するに非ず、有限そのままに無限であるのである。肉体の中に実相〝神の子〟が宿っていると仮りにいうといえども、肉体の中に〝神の子〟が小さく宿っているのではないのである。無限の実相の中に於いて肉体が表現されているのである。それゆえに、この身は実相の表現として、有限そのままに無限であるのである。この身は実相の表現として有限そのままに無限であるから、人間の寿命は無限にして永遠に死することはないのである。時に、〝死する〟如く見えることがあっても、それは表現身が、ただ表現の場を換えただけの事であり、人間そのものは死するのではないのである。人間は不死であり、無限であり、虚空に満つる霊身である。それゆえに我れの本体は阿弥陀仏であり、大日如来であり、普賢菩薩であり、観世音菩薩であり、一切所に転じ現われて大自在であるのである。われは〝内在のキリスト〟であり、物質としての肉体は本来無いのである。肉体無し、本来霊身なりと知ることが、肉体を十字架にかけるということである。》(谷口雅春先生著『真理の吟唱』より)

 又、谷口雅春先生は、『真理』第10巻「実相篇」の「矛盾と自己同一としての人間」には、次の様に示されています。《神は霊である・・・と云うことは物質の如く分割さるべきものではない・・・と云うことである。だから神は到る処に満ちみちており、全実在を一つの渾然たる一体に結び合わしているのである。それは完全であり、調和であり、不健全な一切の徴候をもたないのである。人間の個生命はその神の完全さを分ち有(も)つところのものであり、普遍的なものが「個」として自己実現したのであるから、「個」にして「全」、「肉体」にして「霊的実在」、有限にして無限、と云うような「矛盾の自己同一」を自己の内に内在せしめているのである。「個」ばかりを意識して「全」を意識しないものは自己の真実を自覚するものではないのである。「有限なる肉体」だけを意識して「無限なる霊的実在」なる自分を自覚しない者は自己の真実を知るものではないのである。》(谷口雅春先生著『真理』第10巻「実相篇」85Pより)


34-5) 谷口雅宣氏は「生命の実相」を悟っていないので、生長の家教団が混乱する

 谷口雅宣氏は、《「人間は神の子である」という教えは、バラバラな存在としての「個」なるものは、あくまでも仮の姿であって、実相ではないと否定しています。》と述べた後、《「神・自然・人間の大調和」実現に向かって、喜びをもって進んでいこうではありませんか。》と結論付けています。実は、この最後に書かれている《・・・実現に向かって》という思想が、既に間違っているのです。谷口雅宣氏は、「実相世界(生命の世界)において、万物は既に大調和している(一体である)」という実在を知らない(悟っていない)が故に、この様な考え方になるのです。

 生長の家本来の見方からすれば、『「神・自然・人間の大調和」は既に実相世界において実在している』のであって、谷口雅宣氏は「生命の実相」を悟るに至っていない、と言わざるを得ないのです。《「神・自然・人間の大調和」実現に向かって進んでいこう》というのでは、『「神・自然・人間の大調和」は実現していない』という〝現象の迷いの姿〟を心で掴んでいるのですから、「心の法則」に従って、『「神・自然・人間の大調和」は実現していない』という〝妄想〟が、現象世界に映し出されるしかなくなります。

 「神と自然と人間は一体であり、実相世界は完全円満大調和である」という「生命の実相」の実在を悟る(気が付く)ことによってのみ、実相世界の完全円満大調和の世界が、現象世界にも映し出されることになります。故に、谷口雅宣氏が、《「神・自然・人間の大調和」実現に向かって進んでいこう》と、いくら声高に称えたところで、「神・自然・人間の大調和」は映し出される事にはならないのです。逆に、『「神・自然・人間の大調和」は実現していない』という、潜在意識に根付いている唯物的思想の妄想を宣言している事になり、却って、「神・自然・人間の大調和」は、現象世界から遠退くことになるでしょう。

 つまり、谷口雅宣氏の唯物的思想に基づく〝信仰〟や〝運動〟では、氏が求めようとしている「神・自然・人間の大調和」も「個人の救い」も実現し得ない、という〝大矛盾〟が生じることになるのです。真に「神・自然・人間の大調和」や「個人の救い」を実現したいのであれば、谷口雅春先生が御説き頂いたように、「生命の実相」哲学に基づいた〝信仰〟と〝運動〟に帰らねばならないのです。それは、「神・自然・人間は元々一体であり、既に完全円満で大調和している」「人間は霊的実在なる神そのものであり、本来救われ済みである」という〝生命の実相〟を悟る事に他なりません。


   (平成30年3月6日 © あまむし庵)

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