35/《谷口雅宣氏の「文章全体の思想(唯物思想)」を見抜かねばならない》

谷口雅宣氏の『〝個人の救い〟は自然との調和の中に』を考察する-5(総括)

35-1) 「文節」に拘り過ぎて、「文章全体の思想」を読み解く作業を疎かにすると〝洗脳〟される危険性が生じる

 前回迄、4回に亘って、2017年11月22日の「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」における、谷口雅宣氏の『〝個人の救い〟は自然との調和の中に』という挨拶文について、谷口雅春先生が御説きになられた「生命の実相」の視点から縷々分析いたしました。最後に総括いたします。

 文章というものは、その著者が書かんとする「思想」が先ず存在し、その「思想」を表現せんがために、必要とする単語や文節を並べて、文脈を構成して完成します。その文章に使われているそれぞれの「文節」は、「文章全体の思想」の表現の為の「道具」となります。

 もし、「文節」に含まれる思想そのものが、一見正しいと判断されましょうとも、「文章全体の思想」が間違ったもの(真理に反したもの)であった場合には、その「文節」の価値は極端に薄れるものとなるでしょう。

 谷口雅宣氏の文章を読んでおりますと、一部分の「文節」が生長の家の真理に穿ったもののように、一見解釈できるような使い方がされています。しかし、「文章全体の思想」を読み取る時、「生長の家の真理(生命の実相の真理)」に反した、唯物論に組していることが解ります。すなわち、部分品たる「文節」が一見正しいように見えておるかもしれませんが、目的とする「文章全体の思想」が唯物思想に立脚していて、生長の家の真理とは全く正反対である事が、読み取れるのです。

 谷口雅宣氏の文章を読んだ人の中には、文章を構成しているいくつかの文節の内容が、一見正論(真理)であるかの様に見えてしまう事から、「文章全体の思想」も正しいと、誘導的(洗脳的)に思い込んでしまう方もおられるかもしれません。しかし、それは、とても危険なことなのです。

 生長の家哲学の特徴は、「実相(全体)」を直感把握することと、「現象(部分)」を否定するところにあります。「神(実相・全体)」が主であって、「物質(現象・部分)」が従であります。それに対して唯物論の特徴は、「物質(現象・部分)」が先(主)で、「神(実相・全体)」が後(従)になります。唯物科学は、「部分の寄せ集め」を研究して、「全体」を予想しようとします。しかし、部分の寄せ集めによる唯物思想では、絶対に「神(実相・全体)」を正確に把握する事はできません。どうしても、「神(実相・全体)」を直感把握しなければなりません。

 文章の理解も全く同じ事が言えます。「文節」の寄せ集めで「文章全体の思想」が生じて来るのではありません。その逆であります。「文章全体の思想」がまず存在して、その「思想」を形作る為に様々な「文節」を並べる作業が発生します。つまり、「文章全体の思想」が主であり、部分品たる「文節」は従なのです。

 ということは、文章を読み解く時は、細かい「文節」の正しい理解は勿論重要ですが、その「文節」に拘り過ぎて、「文章全体の思想」を読み解く作業を疎かにすると〝洗脳〟される危険性が生じてしまいます。


35-2) 谷口雅宣氏の文章を読む時の注意事項

 谷口雅宣氏の「文章全体の思想」は唯物論に基づく、反日思想である事は既に多々指摘した通りであります。しかし、氏は巧妙に谷口雅春先生の御文章や思想を使いながら、文章を構成する部分品たる「文節」に「生長の家」らしき言葉を用い、如何にも自分の語っている「文章全体の思想」も、本来の「生長の家の思想」と同じであるかの様に振る舞っているのであります。

 谷口雅宣氏の文章を読む人は、この点を注意して、その〝罠〟に引っかからない様にしなければなりません。又、これに限らず、左翼思想、唯物思想の文章のほとんどは、そのような〝罠〟が隠されているのであります。

 今回の「文章全体の思想」は、(1)『〝個人の救い〟は自然との調和の中に』というタイトル自体と、(2) 《「神・自然・人間の大調和」実現に向かって、喜びをもって進んでいこうではありませんか。》という最後の結論に、その「思想」を読み取る事ができます。この二つの「言葉」の何れも、唯物思想の〝迷い〟が凝縮されています。

 (1) の『〝個人の救い〟は自然との調和の中に』というタイトルは、既に解説したように、実相世界においては既に今此処に、「個人の救い」は成就しているのであって、「何々をすることによって、〝個人の救い〟が成就する」などというのは、唯物的「おかげ信仰」であって、生長の家の信仰でもなんでもありません。このような唯物信仰は〝迷い〟であります。

 (2) の《「神・自然・人間の大調和」実現に向かって、喜びをもって進んでいこうではありませんか。》という最後の結論についても、実相世界に於いて今此処に既に、「神・自然・人間の大調和は実在している」のであって、これから人間の努力によって、実現すると考えているのは、全くの〝迷い〟であります。この考え方も唯物思想であります。

 すなわち、今回の谷口雅宣氏の「文章全体の思想」は、生長の家の「生命の実相の真理」から見て、全く間違ってると言わざるを得ないのであります。つまり、「文章全体の思想」が、根本的に間違っているのであって、その間違った文章を構成する部分品たる「文節」が、如何に巧妙に正しいと見せかけていましても、「文章全体の思想」が唯物思想を基盤としており、根本的に間違っているのであれば、お話にならないと言うことになります。


35-3) 現総裁と現教団幹部諸氏、現教団信徒の皆様への忠告

 このように見てまいりますと、現在生長の家教団で称えられている様々な「運動方針」は、唯物論に基づく「反生長の家思想(反生命の実相思想)」であることが明白なのであります。「運動方針」や「講話」の部分品として使われている「文節」の中には、従来から受け継がれた「生命の実相」哲学の思想も混じっているが故に、一見「生長の家の真理」に穿ったものであるかの様に見えますが、結局のところ人々を欺かんとしているのです。

 今回の谷口雅宣氏の挨拶文を詳細に分析して解る通り、「運動方針全体の思想」は、唯物論に基づく「反生長の家思想(反生命の実相思想)」であって、谷口雅春先生が称えられた「生長の家の真理」を、唯単に「唯物思想を広める為の道具」として使い、部分的に悪用されているに過ぎない事が解ります。

 その事を感じている多くの信徒の皆様は、賢明にも現教団を脱しておられるようですが、まだまだ数多くの方々がそのことに気付かず、三代目総裁谷口雅宣氏を妄信していることは、誠に嘆かわしい限りであります。二言目には「総裁に中心帰一」という殺し文句(脅し文句)を突き付け、人々を縛り留めているようですが、この事自体が「〝唯物論の迷い〟に中心帰一」することを強要していると言えます。誠に総裁、幹部、講師・指導者層の〝罪〟は大きいと言わざるを得ません。

※(注)・・・・「中心帰一」については、拙ブログ『4/中心帰一 その一/現象の迷いの否定を通さない「中心帰一」は中心帰一ではない』以降、4つの文章を御覧下さい。(信徒に中心帰一を強いる前に、何はともあれ、現総裁自身が、まず生長の家大神に中心帰一せねばなりません。) http://56937977.at.webry.info/201406/article_1.html

 現総裁の谷口雅宣氏は勿論の事、白鳩会総裁、本部理事、本部・教団指導者層、教化部長、本部講師、地方講師、教区指導者層は、その〝罪〟(罪とは実相を隠蔽する唯物思想の事)の大きさを自覚せねばなりません。と同時に、〝罪〟は本来実在しない仮相であるが故に、必ず「罪の暴露」と「迷いの自壊作用」が訪れて、自らの〝迷い〟と〝罪〟が破壊される摂理を知らねばなりません。

 まさにその時は近づいています。如何なる道を選択するかは、各人の自由選択でありますから、自分自身で決断を下さなければなりません。谷口雅春先生の御説きになられた「生長の家の真理」を生きるとは、「神の子の自覚(一切者の自覚)」に立って、自らの内なる神の声に従って、決断することではないでしょうか。

 以上で考察を終了いたします。


   (平成30年3月6日 © あまむし庵)

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