60/【天皇の継続性−5】森羅万象を神として拝み、自己の心を禊祓いする「日本民族」の生き方

37)国民が天皇を「神」として拝み、天皇が国民を「神」として拝む所の「拝み合い」の日本精神

 『君民同治の神示』(谷口雅春著)に、《かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。されば民が主であり君は客である。是を主客合一の立場に於て把握すれば主客一體であり、君民一體であり、民は君を拝み、君は民を拝む。民を拝みたまふ治は、君を拝むところの事と一體である。治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、君民同治である。》と書かれている。
 ここに書かれている精神は、国民が天皇を「神」として拝み、天皇が国民を「神」として拝む所の「拝み合い」の日本精神である。武道に限らず、あらゆる日本古来の修練の世界では、相対する人・物・事に対して「礼」(神として拝む)をもって臨む事を基本としている。つまり、天地一切(自己の環境に現れている存在)を「神として拝む」事を第一と為している。故に日本では、森羅万象を「八百万の神」として拝み得る事になる。

38)『宝鏡奉斎の神勅』に秘められた偉大な真理

 日本は実に不思議な国である。神社の御神体の多くが「御鏡」であり、神社に詣でる時「御神体」(御鏡)に映った自分自身の姿を、「神」として拝んでいる事を意味している。つまり、神社にお参りしている自分自身(人間)を、「祀られる神」として拝んでいる事になる。即ち「主客一体」の実践と言える。これが「日本書紀」に記載されている、天照大御神が瓊瓊杵命に下された『宝鏡奉斎の神勅』の真義である。天皇が「現人神」であらせられるのは、天照大御神と天皇が一体であるからであり、天皇を天照大御神として拝んでいる国民も「主客一体」であるから、同様に天照大御神と一体である事を意味しているのである。「天照大御神」と「天皇」と「国民」とは、三位にして一体である。この『宝鏡奉斎の神勅』の精神が、神社の「御鏡」として今日迄延々と体現され、日本全土に神社として存在し続けている。神社にお参りする時、皇居一般参賀等で天皇にまみえる時、「天照大御神(神社に祀られる神)」と「天皇」と「自分自身」とは一体の「神」であることを、日本民族はどこか魂的な次元で感じているのだろう。「神社の神聖性」も「天皇の神聖性」も、「国民自身の神聖性」より反映する。日本民族自身が「人間は神である」と自覚しているが故に、「神社が神性」であり、「天皇が神性」であり、「森羅万象が神性」であると理解できる事になる。

39)「お辞儀」「礼」「神として拝む」事が世界平和の基本

 令和元年(2019年)日本で開催されたラグビーW杯では、各国代表選手が試合終了後、自主的に日本の観客に対して深々と頭を下げ、「お辞儀」を返した事が世界中の話題になった。それは、開催地である日本全体からの真心に満ちた受け入れ体制と、スタジアムでの観客の敵味方分け隔てない両チームに対する、敬意のこもった応援に感動したからであった。
 観客が各国選手を拝み、各国選手が観客を拝む姿は、日本文化の象徴であり、その精神がラグビーW杯の場で実現した事を、世界のメディアは好意を持って自国に伝えていた。ワールドラグビーのビル・ボーモント会長は、W杯日本大会を「おそらく過去最高のラグビーW杯」と称賛している。「お辞儀」「礼」の習慣は、相手(森羅万象)を「神として拝む」事を意味している。この「神として拝む」姿勢は、宗教根本のあり方であり、世界平和の基本と言える。「天地一切のものを神として拝む」姿勢は、「神への全託」「神の御心を生きる」事に通じる。

40)神の御心に全托した(神に自己を捧げる/神として拝む)時、神の国が地上に顕現する

 人間が、100%神に全托して、神の御心の通りに生きた時、すなわち、神に自己を捧げた時、神の国が地上に顕現する。日本民族は古来から、この「道」を極めて来た民族である。そして同時にこれが、キリストの教え(キリストは「人間は神の子」だと自覚し、「隣人を愛せよ」と説いた)であり、生長の家の真髄と言える。天地一切のものを「神として拝む」時、環境は吾が心の影であるから、その人の心が信じた通りに、環境に神が現れる事になる。つまり、世界の実相(神の理念、神の御心)が現象世界に顕現する。時間空間の次元を超えて、既に神の世界は生命の世界(現象の奥)に実在しているのであるが、その神の世界を人間がはっきりと認めた時、地上(時間空間の次元)に「神の国」が映し出されることになる。日本民族においては、「神の世界を認める」行為が、自分に相対する存在を「神として拝む」という「お辞儀」となり、その相手や対象を敬う。と同時に、立ち向かう相手を通し、切磋琢磨して自らの技能を高め上げ、「自己の足らざる技能と迷い」を発見し、さらに修練を積み重ねるという事となる。こうした修行の道を通じて、「内なる神の御心」を自己に顕現せしむることになる。日本が古来から平和で美しい国であるのは、この様な「拝み合い」の精神と飽くなき「修練」の結果であると言える。

41)「抽象的概念」を生活に体現する

 そこで問題になるのは、「神の御心に全托する」「神に自己を捧げる」ということだが、それを抽象的概念として捉えるのではなく、具体的にそれを現象世界に顕現せしむるには、抽象的な観念のレベルを超えて、「今此処の一瞬」(日々の生活の一瞬一瞬)に「神の御心を顕現する(神の御心に全托する・神に自己を捧げる)」必要がある。それが出来た時に初めて、現実世界に「実相(神の御心)が顕現する」ことになる。では「今此処の一瞬に神の御心を顕現する」とは一体どういう事かと言うのが問題になる。

42)環境に現れた不完全な姿(迷い)を「神の御心に達せざる教訓」として受け止め、「自己限定」を打ち破って心の迷いを破壊すべく切磋琢磨する時、「神の世界」が環境に反映される

 それは、抽象的な観念の世界で、「神の御心を感じ取る」というレベルの信仰とは訳が違う。そうでなく、現実世界を現し出している究極の「今此処の一瞬」に生きなければならないという意味となる。それは架空の概念のお遊びではなく、「今此処の一瞬の生命的把握」でなければならない。自己の観念の遊び(創作)ではなく、「神の御心が顕現する今此処の一瞬に自己を捧げ切る」という意味でなければならない。更に具体的に表現するとなれば、『自己の目前に現れた問題と見える不完全な姿(相手や事象)を「教訓」(神の御心に達せざる教訓)として拝んで受け取り、その「教訓」を自己の過去の心の「迷い(神の御心に達せざる心)」と理解した上で、その「迷い」を浄め去るべく生活に生きる』という事になる。神の御心は「自己の内部理想」であり、環境に現れた不完全な姿(迷い)は「内部理想に達せざる教訓」(自己限定を教えるチャンス)を意味する。環境に現れた不完全な姿(迷い)を「内部理想に達せざる教訓」として受け止め、自分では気付かずにいた「自己限定」を打ち破って心の迷いを破壊すべく切磋琢磨する時、元々存在している「神性(内部理想)」が発現し、「神の世界(理想世界)」がその人の環境に反映されることになる。

43)環境は吾が心の影/自分の心が変れば環境が変わる

 環境に現れた姿を「教訓」として受け止めて、自己の心の「迷い」を捨て去るという事は、「環境は吾が心の影」である事を意味している。「環境は吾が心の影」という「心の法則」があるが故に、環境に映し出された「自己の心の姿」を観察する事によって、「自己の心がどのようなものであったか」という事がはじめて理解できるのである。それにより、自己の心を反省する機会が与えられて、人々の魂は向上する仕組みにこの宇宙はなっているということである。そのことを仏教では「観世音菩薩」として尊称している。『観世音菩薩を称うる祈り』(谷口雅春著『真理の吟唱』)に次の様に書かれている。《この世界は観世音菩薩の妙智力を示現せる世界であるのである。観世音菩薩とは単なる一人の菩薩の固有名詞ではないのである。それは宇宙に満つる大慈悲であり、妙智力であり、”心の法則”であるのである。観世音とは世の中の一切衆生の心を観じ給いて、それを得度せんがために、衆生の心相応の姿を顕じたまう「観自在の原理」である。三十三身に身を変じて、われわれを救いたまうとは、このことである。”心の法則”として、衆生の心に従って、その姿をあらわしたまう事、その事が大慈悲なのである。・・・》(『真理の吟唱』より抜萃)この仏教思想で説かれている「心の法則」の考え方は、『古事記』の「禊祓い」の思想と同一と言える。
 環境に現れた如何なる姿であっても、「自己の心の影」であるから、相手や環境を憎んだり恨んだりせずに、自己の心を反省的に顧みて、「自己の心の迷い」を捨て去る事によってのみ、相手や環境が変化するという事である。相手や環境を変えようとしている間は、相手も環境も変わるものではない。相手を無理やり変えようとしたり、相手から逃避する事で、たとえ相手が一時的に消えたとしても、同じ様な問題を持った別の相手が又現れる事になり、自己の環境は決して変化しないのである。自分の心が変れば相手も環境も変わるのである。

44)森羅万象(天地一切)の現れを「神の御心の現れ」(光)と「神の御心に達せざる教訓」(闇)として拝み、自己の「心の迷い(穢れ)」を禊祓いする日本民族の生き方

 『「自己限定」を打ち破って心の迷いを破壊すべく切磋琢磨する時、元々存在している「神性(内部理想)」が発現し、「神の世界(理想世界)」がその人の環境に反映される』・・・この事の象徴的神話が、『古事記』の伊邪那岐大神が黄泉の国から逃げ帰った時に行なった「禊祓(みそぎはら)い」である。「自己の心の穢れを払拭する」「禊祓い」は神道の根幹と言える。神道には「こうしなければならない」という「教義」は存在しない。あるのは「宇宙の真理の象徴神話」と「森羅万象・八百万の神々に対する礼拝・祭祀」と「自己の心の禊祓い」である。森羅万象を神として拝み、「人間の生命は元々完全円満な神の生命である」から、「自己の心の迷い(穢れ)を捨て去れば良いだけだ」という真理を、日本民族は知っていたのである。『古事記』の神話は「生み」の神話であり、神が神々を生み、森羅万象を生み、天皇を生み、人間を生んだという「生命の系譜」が示されている。つまり、「神々も森羅万象も天皇も人間も全てが神が生んだ〝神の子〟である」という事を教えている。人間の本質も森羅万象の本質も「神」であるが故に、迷い(穢れ)を取り去るだけで、全ての善き事が環境に現れる事を知っていたのだ。
 唯、現象世界(うつしよ)の現れは「心の影」であるから、神の御心に達せざる「迷いの心」の混入する度合いによって、様々な問題が生じる事になる。その「自己の心」の状態を教えてくれるのが、「心の法則」によって映し出された現象世界である。故に、様々な問題を解決しようと思えば、自己の心の迷いを禊祓いすれば(浄化すれば)よいだけである。伊邪那岐大神が「穢れ」を払拭する「禊祓い」を行なった事によって、至高の神、天照大御神がお生まれになった。天照大御神は高天原(実相世界)を統べる主宰神となられた事から解る様に、この神話は『「迷い(穢れ)」を払拭すれば、完全円満な「実相世界」が現れる』事の象徴神話と言える。人間の生命も神であるから、神の御心に達せざる「自己の心の迷い」(迷いとは心の表面についた汚れに過ぎない)を捨て去った時、「神の御心」「実相世界」(天照大御神)が自ずと現れることになる。森羅万象(天地一切)の現れを「神の御心の現れ」(光)と「神の御心に達せざる教訓」(闇)として拝み、自己の「心の迷い(穢れ)」を禊祓いする日本民族の生き方がそこに現れている。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 6

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

この記事へのコメント