61/【天皇の継続性−6】天皇に自己を捧げる事で、日本民族は「神への信仰」を確立させた

45)「自我を死に切った時」に「無我」となり、「今此処の一瞬の生命」(神の御心)を把握し得る

 前述した通り、「日本神道」「日本文化」の真髄と言えるものは、「森羅万象の本質を神」として拝み、吾が心の影として映し出された「現象世界」に「迷い」(穢れ)があれば、「禊祓い」を行なう事により、本来の「神の御心を地上に顕現する」生き方である。その生き方が「今此処の一瞬の生命的把握」であり、「久遠の生命」の把握である。「久遠の生命」は「今此処の一瞬に実在している」のだが、それをどうやって把握し得るかと言うと、それは「無我」を通らねばならないのである。「無我随順」を生きるのであるが、その「無我」とは「自我を死に切った時」にはじめて「無我」が成就する。(日本民族が古来から尊んだ「清き心」「澄んだ心」「曇り無き心」「穢れなき心」は、「無我」と同義であるが故に、インド・支那大陸から伝来した仏教の真髄である「無我」の悟りを、当たり前の事として取り入れる事が出来たと言える。)「無我」とは「自我の消滅」を通らねばならないのである。その時初めて「今此処の一瞬の生命」(神の御心)を把握し得ることになる。西洋文化は「自我」の世界の展開であり、東洋文化特に日本文化は「無我」の世界の展開と言える。先に述べた「迷い(穢れ)の禊祓い」は、「自我の消滅」と同義である。
 日本の武士道は、この「無我の精神」「自我の消滅」を極める道である。「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」とは『葉隠』の有名な一節だが、「自我の消滅」という関門を通った時に武士道即ち「人の道」が完成する事を、日本民族の先人達はちゃんと理解されていたと言える。大東亜戦争中の「特攻」は、その象徴と言える。なぜ「自己の死」を行ない得たか、西洋人は理解に苦しむだろうが、「無我献身」「滅私奉公」「自我の消滅」の中に「悟りの道」がある事を知る日本民族にとっては、簡単にそれが理解でき実行し得たのである。これら先人の祖国の為に身を捧げる行為は、『古事記』の伊邪那岐大神の禊祓いの実践なのである。キリストが十字架に磔になった事は、「肉体の消滅」=「自我の消滅」=「無我の完成」=「神の御心の顕現」の象徴と言える。日本民族はそれを理解し、自らが実践体得する民族なのである。

46)「拝み合うだけで十分」ではないか、「戦う必要性」がそもそもあるのかという疑問

 武道に於いては、前項に述べた通りお互いが「神として拝み合う」事から始めるのであるが、何故お互いが戦い合うのかについて補足説明したいと思う。「拝み合う」という事と「戦い合う」事とは、一見真逆の行為であり、矛盾している様に見える。「お互いが神として拝んでいるだけで良い」様なものであるが、「拝み合う者同士が戦い合う事は解せない」と思う人がおられるに違いない。「拝み合うだけで十分」ではないか、「戦う必要性」がそもそもあるのかという疑問である。その疑問は極めて重要な意味を持っていると言える。
 「拝み合うだけで良い」様に感じるが、それだけでは十分ではないのである。「拝んでいる」つもりでも、実は心の奥底で「拝み切っていない」事は多々あるのである。心の奥底(潜在意識の奥底)で恨んでいたり、無視していたり、迷っていたりしている事に自分自身が気付かずに、「自分は拝んでいる」と思い違いをしているという事である。即ち、「拝み合うだけで良し」としていては、自分では気付いていない「自分の心の奥底の迷いを払拭する」には至らないということになる。
 「戦い合う」という行為は、「自分の心の迷いと、相手の心の迷いとを戦わせる(切り合う)」事を意味している。武道の真剣勝負の場で、自己の心の迷いが曝け出される事を意味しているのである。より強い相手と対戦する時、「自分の心の迷い」がはっきりと見抜かれる事になる。その「迷いの隙」に切り込まれて勝負に負けるのである。ここに「人生の百般の苦難の意義」も発見できる事になる。究極は「拝み合い」であるが、それを心の奥底からの「礼拝」として成就する為には、「迷いの払拭」としての「戦い合い(迷いの切り合い)」(環境に現れた人生の苦難)の形で現れる「切磋琢磨」を通らねばならない事が理解できる。人生に何故「苦難」があり、「努力」や「戦い」が現れているのか理解が出来ると思う。全ては「魂の向上」(迷いの払拭)の為である。「魂の向上」とは、「神の御心の地上への顕現」である。(現象世界に現れた戦争や病気や不幸の苦難は、谷口雅春先生が説かれた所の「迷いの自壊作用」であり、精神分析学の大家フロイトの「自己破壊本能」である。潜在意識の奥底にある「迷い」が破壊される時に、現象的には戦争や病気や不幸となって消えて行く姿である。故に、悪い事が現れた時には、「迷い」が消えたのであるから、本来は感謝して喜べば良いのである。)

47)「潜在意識の中の迷い(自己限定)」がある内は、「理想を求める」その願いには到達できない

 この事は、仕事や人生全般に於ける「理想を求める」という事にも通じる。自分では「理想を求めている」つもりであっても、人はそこへの到達を阻害する様々な「自己限定」を持っているものである。特に潜在意識の奥底で、現在意識が願っている「理想を求める」気持ちとは相容れない、否定的観念を持っている事は多々ある事を知らねばならない。「環境は吾が心(潜在意識)の影」であるから、環境に映し出された姿は、自己の潜在意識である奥底の意識がそのまま反映されているのである。故に、自己が描いている「理想」と、「環境に映し出された姿」との間にギャップがあるならば、それは「現在意識の願い(理想)」と自己の「潜在意識の隠れた願い(環境に現れる姿)」との間のギャップを教えていることになる。
 自己の「理想」を環境(立ち向かう相手)に照らした時、潜在意識が抱えている「自己限定の度合い(現在意識が描いている理想を実現したくない否定的な願い)」が見えて来る。他人との比較、評価、競争と、自己の環境に現れた「結果」があればこそ、自分では気付かなかった「自己限定」に気付く事が出来、その「自己限定」を破壊できることになる。「拝む事」であれ「理想を求める事」であれ、「潜在意識の中の迷い(自己限定)」がある内は、その願いには到達できないという事になる。その潜在意識の見えざる「自己限定」を発見し、反省させる為に存在しているのが、「心の法則」によって映し出された所の森羅万象の「環境」である。それが「観世音菩薩」であり、『旧約聖書』に現れた「ヤハウェ」である。

48)「武道の対戦」も、「観世音菩薩の迷いの払拭」や「伊邪那岐大神の禊祓い」の実践

 「戦い合う」という事は、前述した「観世音菩薩」(心の法則)による「迷いの払拭」の為であり、伊邪那岐大神の「迷い(穢れ)の禊祓い」の為であるが故に、「迷いの払拭」「自己限定の破壊」「魂の向上」の為には、この世界に必須なものであると言わざるを得ない。「武道の対戦」も、「観世音菩薩の迷いの払拭」や「伊邪那岐大神の禊祓い」の実践と言える。実はこの事は武道だけの話ではなく、人生全般の出来事の全てにおいて、同じ意味を持っているのである。自己の環境に現れる事は「自己の心の反映」であるから、その環境(立ち向かう相手)から、「教訓」や「迷いの払拭」等を学び取れば良い事になる。たとえ「敵と見える存在」であっても、「自己の潜在意識の迷いを気付かせてくれる味方だ」と拝んで受け止める時、その人の信念の通りに、「自己の迷いを浄化する協力者」として寄与できるものとなる。逆に「敵と見える存在」に対して、「自分を害する悪意ある存在だ」と憎んでいる限りは、その人の信念の通りに、「自己を傷つける悪意ある敵」として存在し続ける事になるのは当然である。
 武道ではお互いの「迷いを切り合う」事に重きを置いている。「迷いを切る」(潜在意識の迷いを捨て去る)事によって、はじめて「自己の内部神性の顕現」が成就するが故に、人々は自己の魂の向上の為に、武道に励むのである。武道では相手の「隙」に入り込み(打ち込み)相手を倒す。その「隙」とは「迷い」であり「自我」である。「隙を無くす」には、「迷い」を払拭し、「自我」を捨て去らねばならない。つまり、どうしても「無我の境地」に入らねばならないのである。

49)自己の「隠れている(気付かない)迷い」を払拭する事が武道の目的

 「無我の境地」に超入した時「神が現れる」のである。その人にはもはや「隙」はないのであるから、なんびとも「打ち込む」事は出来ない。無敵となるのだ。その境地に達した武道家は「達人」と呼ばれる。武道は「無我を体得する」為に修練を積んでいるとも言える。その境地に入った時「神」を体得することになる。武道だけでなく、日本の「◯◯道」と呼ばれている精神修養の「道」は、その境地を極める為の工夫であり、人間性の完成の為である。
 武道の場合は、お互いが修練を積み切磋琢磨して、「自己の迷い」を払拭する事によって、相手の「迷い」を容易に見つけ出す事が出来ると同時に、相手の「迷いの隙」に切り込む事が出来るのである。それを為し得た者が勝者となる。武道の試合の真の目的は、「相手に勝つ為」ではない。「自我を無くし」「自己の迷いを無くす」事が目的となる。その結果として、「神の御心が顕現する」事になる。「自己の心の迷いを払拭し得た者」が勝者となる。武道の修練を通じ自己の心の迷いを払拭し、より強い対戦相手と交わる事によって、自己の「隠れている(気付かない)迷い」の存在を知り、更に精進に励む事ができる。それが武道の目的と言える。

50)抽象的に「神を拝んでいれば良い」と考えて「自己の心の迷いに気が付かない」様では、決して「神の御心を地上に顕現する」事は出来ない

 観念的信仰の段階で満足して「自己の心の迷いに気が付かない」様では、決して「神の御心を地上に顕現する」事は出来ないのである。それは「野狐禅」である。「自己の心の迷い」を如何に見つけ出し、それを如何に払拭するかという、実生活(環境・観世音菩薩)に於ける切磋琢磨と修練によって、自己の迷いは払拭され、魂は向上する。そして、そこに「神の御心が顕現する」事になるのである。観世音菩薩(心の法則・現象顕現の法則)による「自己の心の迷いの払拭」や、神道における「禊祓い」が必須となる所以である。そこに、神道と武道に象徴される日本文化の偉大さ、重要性が潜んでいると言える。世界の人々が自国の文化や宗教を把持したまま、神道や武道等の「道」という日本文化を体験する意義がそこにあると考えられる。世界の人々が、日本文化と触れ合い、神道や武道等の精神修養の「道」を通して、日本精神の真髄に触れる時、地上天国が具体的に成就するであろう。現在日本文化が世界中から注目されつつある事は、「地上天国完成」の為には、極めて重要なプロセスであり、歴史的摂理だと考えられる。
 つまり信仰の完成(人格の完成)の為には、「自己の心の迷い」を払拭し、「無我の境地」を体感体得する必要があるからである。キリストが「汝らの隣人を愛せよ」と説いたが、「自我の消滅」と「無我の境地」と「愛」と「自己限定の破壊」は畢竟同じ意味である。「自我の消滅」した状態が「無我の境地」であり「愛(自他一体)」である。そして、「自我の消滅」は「自己限定の破壊」となり、「自由自在の境地」の体験に繋がる。「自我の消滅」=「無我の境地」=「愛」=「自己限定の破壊」=「自由自在の境地」が成就する時、世界中の宗教と信仰と文化伝統をそのまま把持したまま昇華し、それぞれの宗教の理想とする「神の国が地上に顕現する」事になるであろう。

51)神すなわち「久遠の生命」(今此処の一瞬の生命)が形の世界に映し出される時、「永遠の継続」という姿で具象化される

 ここ迄、「神の御心を顕現する」過程としての「自我の消滅」「無我」の重要性について触れて来た。では「神の御心の顕現」の雛形についても、触れておきたいと思う。それが「天皇」であらせられる。「神の御心(永遠性・無私)の具現化」が最も明瞭な形でこの現象世界に映し出されているのが、「天皇」という御存在である。その「天皇の生命」の実質(実相)は、形以前の存在(神、天照大御神、無我の本体)であるが、それが具体的存在として具象化したのが日本の「天皇」である。「天皇」は「無私」すなわち「神」を最も体現する御存在として、長き歴史がその事実を証明している。「神」すなわち「久遠の生命」(今此処の一瞬の生命)が形の世界に映し出される時、「永遠の継続」という姿で具象化されると考えられる。「天皇」が「万世一系」「天壌無窮」の理念の展開として現れていること自体が、「久遠の生命」=「今此処の一瞬の生命」の顕現である事を象徴していると言える。その逆は「儚い存在」であり、実在しないものの象徴と言える。

52)具体的に「天皇に自己を捧げる」事によって、日本民族は「神への信仰」を確立した

 故に、日本民族は「天皇」に自己を捧げる(仕える、奉仕する、無我随順する)事をもって、「今此処の一瞬を生きる」つまり、「神の御心を顕現する」事であると、理解し得たのである。唯単に、抽象的概念としての「神の御心」を把握しようとする行為は、「野狐禅」に陥ることになる。人間の究極の生き方は、「神の御心を生きる」「神に自分を捧げる」所にあると言えるが、それが抽象的概念に終わっている間は、それはどうやっても完成する事はない。必ず問題が発生する。よくある事だが、「神を信ぜよ」と説く幾多の宗教の中で、様々な問題が勃発している事実は、実にそこに原因があると言える。「神」を概念的に説く事は簡単なことである。それは「信仰の入口」に過ぎないのである。「信仰」を極めるには、「無我」を生活に生き切らねばならない。その時はじめて「体験的に神の御心を生きる」つまり、「地上に天国を実現し得る」のである。

53)生長の家の信仰の真髄は、「天皇信仰」である

 生長の家の信仰の真髄は、「天皇信仰」である事を、谷口雅春先生は喝破せられた。谷口雅春先生の信仰は「生命の実相哲学」であるが、その真髄は「天皇信仰」なのである。それは、「今此処の一瞬を生きる」という究極の生き方の完成を意味している。抽象的神の概念を、具体的世界に顕現する事が、この人生の最大の意義と言えるだろう。キリストは《御国をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。》と祈られたのである。「地(現象世界)に具体的に神の国を顕現する」のが、キリストの祈りであった。畢竟「現象世界」とは「人々の心の映し」であるが故に、「人々の心の中に神の国を顕現する」のが、キリストの祈りなのである。故に、その為には人々は現実生活を通して「無我」を体現せねばならないのである。
 「天皇」は「無我の象徴」であり「無私の実態」である。日本民族は「天皇」に「自己の生命を捧げ切る」事を通して、無我を体現し、「神の国を顕現する」民族である。抽象的概念で「神」を玩ぶ事を良しとしていないのである。谷口雅春先生は偉大な宗教家であり哲学者であるが、同時に又「天皇信仰」に一生を捧げ切った愛国者であり、「無我の体現者」でもあった。人の生き方は、結局「何ものか」に対して、自己を捧げ尽くす生き様を示す事によってのみ、その真価が問われると言える。いくら口や文章で真理を語ったとしても、その人の生き様に「何ものかへの無我献身」(自我の消滅)が存在しない限り、本物とは言えないのである。

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