63/【天皇の継続性−8】『古事記』は「完成された神話」である

67)「神(エロヒム)」は人間に対して、「神との契約」等という〝条件〟を付けていない

 引き続き『旧約聖書』について考察する。『旧約聖書』の教えの根本は、「神との契約(約束)を信じる事」と言える。「神との契約(約束)を信じる事」とは、つまり、「ヤハウェ」を信じる人々は、『「神との契約(約束)が存在している」という強い「信念(信仰)」』を持っているという事である。『旧約聖書』を信ずる人々にとっての神「ヤハウェ」は、前述した通り「心の法則」を現している。『旧約聖書』を信じる人々にとって、「神との契約(約束)」は「自分自身が信じた所の信念(信仰)」であって、それは同時に「自分自身が信じた所の信念(信仰)の通りに自身の運命が現れる」という「心の法則」を信じているということである。
 絶対の愛(無条件の愛)である「神(エロヒム)」は完全円満なる実相人間(神の自己顕現)に対して、「神との契約(約束)」等という〝条件〟を一切付ける必要性がないのであるから、「神との契約(約束)」なるものは、現象人間の「迷い」であり、本来無いのである。『旧約聖書』冒頭の「創世記」第1章「天地創造」には、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」、更には「神は自分のかたちに人を創造された。」と書かれている。人間とは「神と同じきもの」であり、一切の存在を治める権限を持たせた事によっても明らかである。

68)「心の法則」とは、人間が神自身の素晴らしさを客観的に体験する為に用意された「道具」である

 「心の法則」とは、人間(神の自己実現)が自らの心で自由に創造したものを、その通りに現象世界に顕現させる(地上に現れる)事を約束したものであり、人間を「心の法則」に拘束し、縛り付ける為の「契約」ではない事を知らねばならない。「心の法則」は本来、「神の自己実現たる人間」が、自由に「神自身の素晴らしさ」を客観的に体験する為に用意された「道具(システム)」なのである。神は絶対にして無限の存在であるから、「神の世界」(実相世界)には一切の理念が既に実在しているのであるが、絶対の「主体者である神」のみの世界では、それを「客観的に体験して味わう」事は不可能である。神自らが神自身の偉大さを〝体験〟する為には、どうしても相対となる「客観世界」(自他分離の世界)に自己を投影して、それを観察する必要があるのである。簡単な例を挙げれば、人間が何も使わず自分自身の顔そのものを、自らの目で客観的に観察できないのと同じである。自身(主体者)の顔を客観的に観察する(味わう)為には、「鏡」という道具(客観世界)を創り出し使わねばならない。その「客観世界」(時間空間の世界、現象世界)に投影する「道具(システム)」として、「心の法則」が神によって仕組まれたのである。人間は「神の自己実現の為の主体」であり、同時に「神の自己実現の為の客体」でもある。

69)「心の法則」を「人間を支配する絶対神(ヤハウェ)との契約(約束)」と認識したユダヤ人

 ところが、『一切の現象(環境に現れるもの)は、自分自身の心の姿である』という「心の法則」を、「神(ヤハウェ)という人間を支配する絶対者から強要された契約(約束)」と認識した事によって、ユダヤ民族はその呪縛から抜け切る事ができずに、様々な辛酸を舐めて来たのである。それは何故かと言うと、「物質がある」という錯覚に縛られた事と、「自己が神であって完全円満な存在である」つまり『人間は神の子である』という根本真理(縦の真理)を見逃していた(忘れ去った)からに過ぎない。つまり、ヤハウェ神(心の法則)への強い信仰(畏敬の念)は持っているが、その「神(ヤハウェ)」と「自分達人間」とは、「創造主」と「被造物」との関係であり、「支配」と「被支配」の関係であり、「神が原因(主体者)」で「人間は結果(従属者)」であると信じて来た為、自己を「神の奴隷的(被支配的)位置」に自らの信念によって引きずり降ろしてしまったのである。

70)「神の子人間」が〝主〟であり、「心の法則」は〝従〟である

 「心の法則」は神の自己実現の為の道具であるから、人間(神の子)自身を縛るものではない。逆に、人間(神の子)が主体者となって現象世界に「神の世界」を映し出す為に、「心の法則」が存在するのであるから、「神の子人間」が〝主〟であり、「心の法則」は〝従〟である。「人間は土の塵にて造られた」と書かれている『旧約聖書』の言葉を信じ、自身を「物質人間」として認識したが故に、自分達を創った「心の法則」(ヤハウェ)が〝主〟であり、人間(肉体人間)が〝従〟であると見ていたのである。しかしこの錯覚(迷い)は、『旧約聖書』を信じた人達に限った問題ではなく、人類全体が持つ本質的な問題である。『旧約聖書』のこの記述は、「人間は物質人間である」という人類の唯物論的迷いを代表して、その根本問題を象徴的に示しているだけであると言える。「心の法則」自体を信じる事や理解する事は必要であるが、「人間は神に創られた物質的被造物だ」という信仰や、「人間は物質である」という唯物思想は間違っているのである。人類はそこから脱却しなければならない。

71)「心の法則」は「コンピューターシステム」と似ている

 ここで『「神の子人間」が〝主〟であり、「心の法則」は〝従〟である』という考え方を、解り易く例を挙げて説明したいと思う。
 「心の法則」は「コンピューターシステム」全体の様なものであって、「霊界(念の世界)」も「時間空間の現象(物質)世界」も全て、その「心の法則のシステム」の中に含まれていると思えばよいだろう。そのシステムを使って何をコンピューターの画面(現象世界)に映し出すかは、「コンピューターシステム」(心の法則)を使っている人間側の入力や操作次第で、どうとでも変化する様なものである。その入力側の記憶装置が、「霊界(念の世界)」に当り、出力側のディスプレイ装置が、「時間空間の現象世界」だと考えられる。コンピューターの内部のプログラムは、入力データを記憶装置に保存しながら、様々な条件に従ってデータ処理を行ないつつ、手順に沿って処理結果を画面表示する為の「決まり事(智慧)」を担っている。
 間違った入力や操作をすれば、間違った結果が画面に表示されるのは、コンピューターが与えた「罰」ではない。それは唯単に、入力し操作する人間の未熟さの所為である。コンピューターに習熟する程度に応じて、人は正しい入力と正しい操作を行なえる様になるだろう。そうすれば、コンピューターの画面には自ずと理想的な結果が表示される事になる。それと同様に、「心の法則」を正しく理解し習熟する程度に応じて、人間は入力する「言葉(想念)」を厳選し、「心の法則」を正しく使って、自分の環境に理想的な「心の影」(結果)を表示する事が出来る様になるのである。
 そもそも人間が、ある目的に沿って「コンピューターシステム」を発明したのであって、「コンピューターシステム」を使っている主体者は「人間」だということになる。それと同様に、「神」が「神自身の創造活動を客観的に体験する」為に、「心の法則」という「現象顕現のシステム」を発明したと考えて良いのである。そして、その「心の法則」(現象顕現のシステム)にデータを入力し操作しているのは、神の自己実現たる「神の子人間」の役目だと考えられる。つまり、「心の法則」は神の自己実現たる「神の子人間」にとっての「便利な道具」に過ぎないのである。従って、「人間(神の子)」が〝主〟であって、「心の法則」は〝従〟という事になる。

72)「心の法則」に支配されている人間という見方は、コンピューターの知識を持たずにシステムに使われている人に似ている

 『旧約聖書』の見方の問題点は、「心の法則」(ヤハウェ)が〝主〟であって、「人間」が〝従〟と見ており、人間は「心の法則」に支配されていると錯覚していた事である。実際、誰かが作った「コンピューターのシステム」に踊らされているかのようになっている人も、かなりいる事は確かである。その人達にとっては、最初から「コンピューターのシステム」が存在していて、コンピューター本体を作る必要も無く、その本来の仕組みを理解する事も出来ないまま、「無知」な状態にいるのである。複雑怪奇なコンピューター本体を前にし、それに対する「無知」故に操作方法を間違い、自分にとって不本意な結果を現している場合には、その「コンピュータのシステム」に踊らされた単なる「システムの道具」として、自分が成り下がったかのように錯覚してしまう事になるだろう。
 しかし、コンピューターやプログラムを作る知識と技術を身に付けている人にとっては、「便利な道具」としてコンピューターやプログラムを自分自身で作りながら、自己の創造活動の為に活用して楽しんでいるのである。
 『旧約聖書』に書かれている『「ヤハウェ」(心の法則)に支配されている人間』という見方は、コンピューターの知識を持たずに、「コンピューターのシステム」に使われている(支配されている)人間の立場と同様と言える。しかし、いずれは「心の法則」のシステムを創り上げた理屈が解るようになるに従って、『「神の子人間」が〝主〟であり、「心の法則」は〝従〟である』という真理も理解できるようになるだろう。

73)「人間は神に創られた被造物」という唯物論の縛りを解放しようとしたのがキリスト

 『旧約聖書』の唯物的解釈の教えに縛られていたユダヤ民族の中にあって、2000年前にキリストが誕生し、『人間は神の子である』《「天にまします〝我ら〟の父よ」とキリストが祈っている/つまり、人類(我ら)の父は神であるが故に、「人間は神の子」である》という根本真理を説かれた。即ち、「心の法則(現象顕現の法則)」の唯物思想的解釈、つまり「人間は神に支配されたる被造物(物質人間)であり、結果として現し出された所の肉体人間が自分である」という呪縛(錯覚)を解放する為に、キリストが現れたのである。その解放の方法は、『旧約聖書』の「心の法則」(横の真理)を無視するのではなく、『人間は神の子である』という「縦の真理」を知らしめ、『汝の罪赦されたり』(罪や迷いや現象は本来無い)と宣言する事により人々を解放したのである。しかし、残念ながら、当時のユダヤ民族の多くは、イエス・キリストを磔にし抹殺してしまったのである。『旧約聖書』「創世記」第1章「天地創造」に現れた「エロヒム」による「神の絶対的(第一)創造」(人間は神の子である)の真理に、『旧約聖書』を信じる人々は是非共立ち返らねば、悲惨な歴史を繰り返すだけとなってしまうのである
 
74)『古事記』には『神の子が〝主〟心の法則は〝従〟』という思想が貫かれている

 翻って、日本の『古事記』の場合はどうであろうか。『古事記』は稗田阿礼等の語部(かたりべ)によって暗記伝承された言い伝えを、天皇の詔(みことのり)によって編纂されたものである。従って『古事記』の元となる口伝伝承を誰が考えたかは定かではないが、日本民族古来からの民族的伝承と言える。その『古事記』の神観、宇宙観は、終始一貫日本の「天皇」「神道」「文化伝統」の中心的骨格となっている事から、『古事記』の内容が、日本民族の本質的価値観、宇宙観を現している事は、明白と言える。
 この『古事記』の骨格を占めているのは、「神・天皇・人間・森羅万象」の統一的一体感である。一切の存在が「神の系譜」として描かれている所に、『古事記』の神話の最大の特徴があると言える。前章で述べた通り、《日本の『古事記』は「人間は神の子」の思想を貫いている》のであり、「神」と「神の子」たる人間が中心になっている神話物語が、『古事記』だと言えるのである。ここに、『古事記』と『旧約聖書』を総合的に研究する意義を見出す必要があるだろう。『旧約聖書』の思想が『心の法則が〝主〟肉体人間は〝従〟』という思想であった事は既に説明したが、それに対して『古事記』は、『神の子が〝主〟心の法則は〝従〟』という思想で貫かれているのである。

75)『旧約聖書』と『新約聖書』との関係性と足らざる要素について

 『旧約聖書』は『心の法則が〝主〟肉体人間は〝従〟』の世界観を示した神話であり、キリストの言動を記した『新約聖書』は、『神の子が〝主〟心の法則は〝従〟』の世界観を示しており、『古事記』の思想と同じと言える。この二つの世界観は車の両輪の如く、地上天国建設の為には重要な意義を持っていると言える。前者は「現象世界」を現し出す為の「心の法則」の絶対性が示されており、後者はその「心の法則」を正しく使う為の、「人間は神の子である」という真理を示している。
 その両者の関係性において、さらにもう一つ重要な要素がある事を知らねばならない。それは、「心の法則」も「現象世界(物質世界)」も本来実在しないという事を、はっきりと自覚する事である。「現象がある」「心の法則もある」と思っている間は、目の前の「現象」と「心の法則」に心が引っかかって、「人間は神の子である」という真理が生きて来ないのである。キリスト教が「人間は神の子である」という真理を示している『新約聖書』を信じていながら、何故、長年月に渡り戦争や侵略や迫害に加担して来たのかという歴史的事実の原因が、この「現象がある」「心の法則がある」という『旧約聖書』の唯物思想を、もう一方の手で掴んでいたからだと考えられる。
 イエス・キリストは十字架に磔にされ、肉体的には死んだのであるが、三日にして甦り弟子の前に現れて再び教えを説いた。それは「現象も物質も無い」という真理と、「人間は神の子であり、肉体ではない」(吾が国は此の世の国に非ず)という真理を、身を持って示した事を意味している。それはキリストだけの事ではなく、人類全てが元々「神の子」であり、「肉体」は仮の姿である事を自覚しなければならないのである。自分が「肉体人間」であり、「現象はある」と信じている間は、自らを「唯物論」の呪縛で縛る事になるので、「神の子」本来の完全な自由は体験できないのである。

76)日本では古来から「現象否定」「迷いの否定」が確立していた

 東洋においては、仏教、特に禅宗ではその「現象否定」「物質否定」を強調しており、『無門関』などの禅宗の書は、徹底的に「現象無し」「物質無し」の公案に取り組んでいるのである。先にも述べたが、『般若心経』の《色即是空、空即是色》は、まさにそれである。
 インドで始まった仏教が支那大陸を通り、日本において「大乗仏教」が大成したと言われている。その理由として考えられるのが、日本古来から成立している『古事記』の思想にあると言える。『古事記』の「禊祓い」の思想において、日本では仏教思想の「現象否定」「迷いの否定」が既に定着していたと言える。「禊祓い」は、伊邪那岐大神が「黄泉の国」(現象世界の迷いの象徴・唯物思想)から逃げ帰って、自らを禊祓いした事に始まっている。それが「神道」の「天津祝詞」として、神道の中心的祝詞となった。日本文化は、この「禊祓い」(現象否定・迷いの否定)を延々と実行し続けている文化だと言えるのである。

77)『「罪(迷い)」も「現象」も本来無い』という自覚の重要性

 更に興味深い事は、「禊祓い」によって「罪(迷い)」が消えて、「高天原(実相世界・神の国)」が現れるという思想を持つという事は、『「罪(迷い)」も「現象」も本来無い』という自覚がある事を意味しているのである。元々『「罪(迷い)」も「現象」も本来無い』事を知っていたので、「天津祝詞」の言葉の力で「高天原(実相世界・神の国)」を地上(現象世界)に現し出す事が出来たのである。
 それに対して、『旧約聖書』を信じている西洋文明では、「神が人間を土の塵にて造った」と信じ「原罪」を信じているが故に、「洗礼」(身体を水に浸す行事)をして身を浄めようとも、又教会で熱心に祈りを捧げたとしても、なかなか唯物的観念から抜けきれず、「神の国」を現実社会に現す事が困難となっていたのである。何故そうなるかと言うと、『「罪(迷い)」も「現象」も本来無い』という自覚に達していないからである。
 現象世界は「心の法則」によって現し出されるシステムになっているのであるから、その人が心の奥底(潜在意識)で信じている通りのものが、その人の環境に自動的に映し出される仕組みになっている。従って、自分自身の潜在意識の信念に、『「罪(迷い)」も「現象」も本来無い』と自覚しているかどうかによって、その人の運命は決定されるのである。つまり、その民族が長年信じ込んでいる「神話」や「宗教」が、『「罪(迷い)」も「現象」も本来無い』と表明しているかどうかが、極めて重要だという事になる。そういった民族や宗教の思想が、人々の潜在意識に影響力を及ぼして、その民族全体の運命(将来)を決定する事になるのである。

78)「天津神」が「高天原(神の国)」から天孫降臨して「国津神」を従わせて地上を治める神話

 『古事記』は、「黄泉の国(唯物論の世界)の迷い」の神話を持つと同時に、その「唯物論の迷いを否定する」(禊祓い)神話が強調されている。伊邪那岐大神が「唯物論の迷いを否定する」(禊祓いする)事によってはじめて、「高天原(神の世界・実相世界)」を治める「天照大御神」と、「海原(地上・現象界)」を治める「須佐之男命」が誕生している。(※「月読の命」についてはここでは触れない)
 『古事記』の神々は、この「天照大御神」を主宰神とする「天津神」と、「須佐之男命」の子孫である「大国主命」を主宰神とする「国津神」に大別されており、「天照大御神」の孫に当る「瓊瓊杵命(ににぎのみこと)」が「高天原(神の国)」から天孫降臨して、「国津神」を従わせて地上を治める神話を形作っている。その「天津神」の子孫が「天皇」となり、「天照大御神の詔」(神の御心)に忠実に従って、日本国家が形成されて来た。

79)『古事記』は「天津神」(神の御心)を〝主〟とし「国津神」(現象世界)を〝従〟とする事で、「神の国」を地上に顕現した「神話」である

 つまり『古事記』は、「神の国(高天原)」を治める「天津神」と、「地上(現象世界)」を治める「国津神」との葛藤を現している神話であり、「天津神」(神の御心)が地上に顕現する際に発生する「作用」(神の御心の展開)と「反作用」(迷いの自壊作用)を、「国譲り神話」として現していると考えられる。その元となる根本思想は、「天津神」も「国津神」も共に、「天之御中主神」(根元神)から生まれた所の「一体なる神」の〝別々な働き〟であり、元は「同じ神」なのである。つまり、〝別々な働き〟全てが「神自身の自己顕現」である。結局のところ、「神の御心」が地上(現象世界)に顕現する仕組みを、神話の形で表現しているのが『古事記』と言える。
 日本民族は、「国津神」(現象)が「天津神」(神の御心)に「国譲り」した事により「天津神」が「国津神」を従え、「天津神」の子孫が地上において「天皇」となり永遠に「日の本の国(地上天国)」を形成するという「神話」(思想)を創り、その思想の通りの「日本国家」を造り上げた事になる。故に日本は、世界に類い稀な「神の御心」のままに成立したところの「地上天国」に相応しい、平和で豊かな家族国家となったのである。
 『古事記』は、「天津神」を〝主〟とし、「国津神」を〝従〟とする神々の系譜を描く神話であり、「地上天国顕現」(神の御心の展開)の様子が描かれている。それは、キリストの「御心の天に成るが如く、地にも成らせ給え」の祈り(理想)と同じと言える。日本民族は現実の歴史の中で、キリストの祈り(理想)の通りの世界を、具体的に成就し得た所に偉大さがあると言える。この様に『古事記』は、『旧約聖書』の「心の法則」による地上(現象)世界の形成という要素(国津神神話)と、『新約聖書』の「人間は神の子である」という要素(天津神神話)を共に包含し、同時に「現象の迷いの否定」(禊祓い)の思想を通して、キリストの「御心の天に成るが如く、地にも成らせ給え」の祈り(理想)を現実世界の中で具体的に成就した、「完成された神話」と言えるだろう。
 この『古事記』の神話から発する「天皇」が、126代継続して今日迄存在している事は、計り知れない意義を持つと言える。そこには、キリストの「御心の天に成るが如く、地にも成らせ給え」の祈り(理想)を、日本だけでなく全世界にまで成就させる「鍵」が隠されていると考えられるのである。

80)『古事記』は「完成された神話」である

 『古事記』について《現実世界の中で具体的に成就した、「完成された神話」と言えるだろう。》と前述したが、その理由を補足しておく。『古事記』は、大昔の「神々の神話」が書かれているだけでなく、宇宙の始まりと万物の形成、そして具体的に「日本国家建国」の歴史的経緯や、その後の天皇の歴史まで書かれている。即ち、宇宙が造られた神話、天地万物が生れ出た神話、高天原(実相世界)の神話、黄泉の国(迷い)の神話、天孫降臨(地上天国建設)の神話、実相が迷いを征服する神話、日本国家建国の神話、初期の天皇の歴史物語等々、神々の世界から人間の歴史に至る迄の一連の経緯が、総合的に書かれている神話と言える。
 特に、「神の御心(天照大御神の詔)」に基づく「天孫降臨神話」「国譲り神話」から始まり、「天皇中心の日本国家」成立の具体的歴史に至る迄記録されている所に、『古事記』の凄さがあると言える。更にその『古事記』の神話上の「天皇」が、現在に至る迄一時の中断も無く継続して「日本国家」が存在しているのは、奇蹟以外の何ものでもないだろう。神話が具体的歴史と続き、現代に脈々と息衝いているのである。これが『古事記』の凄さである。整理して言えば、『古事記』は、「神の世界」の神話と、「神の御心の地上への展開」の神話と、「神の御心の地上での実現」の具体的歴史が一体となった、謂わば「完成された神話」と言えるのである。故に、《現実世界の中で具体的に成就した、「完成された神話」と言えるだろう。》という表現になった。

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