64/【天皇の継続性−9】日本民族は『古事記』に示された手順を繰り返し「地上天国」を建設した

81)唯物論の妄想自体を生み出したのは〝神の御業〟か? それとも人間の仕業か?

 「人間は物質である」という妄想が、「人間は塵にて造られた」(=人間は物質的存在だ)という唯物的な概念(妄想)となり、そしてそれが〝原因〟となって、『旧約聖書』の「原罪」の思想が生じた事は既に述べた通りである。では、その唯物論の妄想自体を生み出したのは、〝神の御業〟なのだろうか? それとも人間の仕業だろうか? そういう疑問が生まれるかもしれないので、少し考えてみたい。
 そもそも、神は人間を土の塵から造ってはいないのである。《神は自分のかたちに人を創造された》のであって、その神(エロヒム)が創造された人間とは、「神の分身」であり、基本的に「神」と同じきものである。「神」は形無きもの(形而上学的存在)であり、「絶対的主体者」であるから、「現象的形」(客観的形)をそもそも持つものではない。現象(物質)以前の「生命的・理念的存在」が「神」の本質である。故に、《神は自分のかたちに人を創造された》という意味は、「物質的形」では無い事は明らかである。それは「生命的・理念的存在」とも言うべきものと言える。つまり、《神は自分のかたちに人を創造された》と書かれている「人間」の本質は、「神」と同一の「生命的・理念的存在」であると解釈すべきである。即ち、キリストが自らを「神の子」と自覚した所の「神と同一の生命的・理念的存在」である。

82)神の自己実現として、神が「心の法則」「現象世界」を〝仮に〟創り出した

 しかし、「神と同一の生命的・理念的存在」だけでは、主体だけの世界であり、客体が存在しないので、「神と同一の生命的・理念的存在」である「神の子」自身の内在の素晴らしさを、客観的に知る(味わう)事は出来ないのである。そこで、神の自己実現としての「人間(神の子)」が、客観世界において自身の創造を客観的に観察できるようにする為に、神が「心の法則」「現象世界」を〝仮に〟創り出したと考えられる。それが「ヤハウェ」(心の法則)であり、客観世界に映し出された「アダムとイブ」だという事になる。「心の法則」も「現象世界」も本来の意味においては実在していないのであるが、「アダムとイブ」は、「ヤハウェ」(心の法則)によって映し出された所の「神の子の地上への顕現の姿」であるから、「ヤハウェ」(心の法則)が絶対者として受け止められるのは、致し方ないとも言える。

83)「物質や肉体が存在している」と錯覚する仕組み(システム)を神は創ったが、「土の塵にて人間を造った」のではない

 しかし、それは「土の塵にて人間を造った」のではない。決して、神は人間を土の塵から造ってはいないのである。そのように解釈したのは、「現象世界がある」と観ていたモーゼ等の予言者や、ユダヤ民族の現象的解釈の反映だと言えるのである。「生命的・理念的存在としてのアダムとイブ(神の子)」自身が、「心の法則」に基づいて「現象世界」に自らの心の影を映し出した時、恰も「肉体人間」(土の塵から出来た人間)のように見えただけの事である。
 「土の塵にて人間を造った」のではないにしても、「現象世界」(客観世界)に映し出された自分自身を観察した時、恰も「肉体がある」「物質がある」と感じる事が出来なければ、そもそも神の目的としていた所の、「神の自己実現としての創造活動を客観的に体験する」事が達成されなくなってしまう。つまり、神は決して「土の塵にて人間を造った」のではないけれども、「心の法則」を通して「神の子人間」が観察した時に、恰も「自分は肉体人間だ」という風に感じ取っているに過ぎないのである。つまり、「心の法則」「現象世界」を通して「神の自己顕現たる神の子人間」が、本来無い所の客観世界を観察した時に、恰も「物質や肉体が存在している」かの如くに錯覚する様な仕組み(システム)を、「神」が創ったということになる。

84)啓示や直観の解釈と判断の難しさ

 《 主なる神は土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。》と『旧約聖書』に書かれているのは、モーゼ等の予言者自身の直感的解釈である。神・高級霊からの啓示・直観というものは、啓示の発信元がどの段階の神であるか、又は如何なる霊魂であるかによって、千差万別の啓示や直観となって現れる事になる。更に、たとえ純粋且つ高度な神からの啓示であったとしても、それを受け取る人間側の感知能力や、真理に対する悟りの程度や、理解力、表現能力のレベル、その時々の精神状態や体調に応じて、様々な解釈や表現内容となって受け止められることになる。それが啓示や直観の解釈と判断の難しい所である。

85)モーゼ等は「現象世界」「心の法則」の次元に立って、「神からの啓示・直観」を受け止めていた

 『旧約聖書』によるモーゼ等の予言者の解釈では、《 主なる神は土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。》となっている。しかし、それは「肉体人間がある」という肉体人間的先入観念に基づいて、《土の塵で人を造り》と解釈(誤解)したものだと考えられる。《土の塵で人を造り》と解釈しているが、それは本来の意味においては、飽く迄『客観世界に現象人間(肉体人間)として映し出された』という意味であると理解し得る。「現象(物質)は無い」という真理(※)は通常の人々にはなかなか理解できないので、《土の塵で人を造り》という表現しか成り得なかったとも言える。つまり、《 主なる神は土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。》と書かれている真の意味は、『神の言葉(創造)が発せられた事によって、神の理念的(生命的)「神の子人間」が誕生し、その「神の子人間」の心の働きが原因となって、「心の法則」を通じて、客観世界のスクリーンに現象人間(肉体人間)として映し出された』という解釈になると考えられる。
 モーゼ等は、「心の法則」(宇宙の顕現の一大原理)を「主なる神」(ヤハウェ)として解釈したのだと小生は理解している。この「心の法則」は、現象世界を造る上での絶対力であるが故に、モーゼ等が「主なる神」(絶対神)と認識した事は、無理からぬ事だと思うが、実は大きな「錯覚」だという事になる。何故なら、モーゼ等が「土の塵で人を造り」と解釈した事自体が、既に「物質がある」という「現象世界」の認識であり、「神の生命的・理念的世界」(実相世界・キリストの言う〝神の国〟)に超入して「神の子人間」を認識しているのではないという事になるからである。つまり、モーゼ等は、現象世界の「心の法則」の次元に立って、「神からの啓示・直観」を受け止めていたのであり、「神の生命的・理念的世界」に超入して、「神」と「神の子」を認識していたのではなかったと言う事になる。モーゼ等は、「神の生命的・理念的世界」(実相世界・キリストの言う〝神の国〟)を十分に悟っていなかったということであり、現象世界の「心の法則」の次元に立った啓示と解釈から始まった事が、『旧約聖書』の「唯物的傾向」の大本であると考えられる。
(注※・・・・『般若心経』に《観自在菩薩、照見五蘊皆空》とある通り、仏教哲学においては、「現象無し」「物質無し」の真理を最初から喝破しているのである。仏教哲学においては、「現象無し」「物質無し」の真理が大前提として、壮大なる一大仏教哲理が構築されている様に、「現象無し」「物質無し」の真理は最も重要な宗教哲学的テーマと言える。この「現象無し」「物質無し」の真理を現代科学的に証明するには、別に長文の説明文を要するのでここでは割愛し、補足の意味も籠めて、【天皇の継続性】シリーズの次に、【物質無し】シリーズを公開したいと思う。)

86)「迷い」と「悟り」の二律背反は、「地上天国実現」の為に永遠に繰り返される究極的な「神のゲーム」

 ここで別の疑問が生じて来る。もし「愛の神」を信じていたとすれば、「塵にて人間を造った」という記述の解釈はどうなるのか? それともそういった記述自体が生まれないのか? それについては、次の様に解釈できる。
 「愛の神」を信じていれば、「原罪」の観念は出て来ないのである。「愛」とは「自他一体」の観念だから、「自他分離」の客観世界の幻出以前の「神の世界」(生命的・理念的世界)を意味している。故に「愛の神」とは「実相世界」(現象世界以前の実在の世界)を意味している。「実相世界」に超入している場合には、「自他分離」「現象世界」の観念はそもそも存在しないので、その瞬間は「原罪」もなければ、その原因となる「肉体人間」「物質的存在」「現象世界」の観念は消え去る事になる。そういう唯物的観念がなければ、「原罪」は起こり様がない。しかしながら、「神の自己実現として客観的に観察する」という行為自体も消え去るだろう。そこに「永遠の矛盾」が現れる事になる。
(A) 『「神の自己実現として無限の創造を客観的に観察する」という目的の為には、下の(B) の「神の世界」の境地を忘れて、「自他分離」「現象世界への投影」「客観的な観察」という「迷い」を体験しなければならない。』
(B) 『上の (A) の「迷い」の体験をすると、無数の問題(矛盾)が生ずるが故に、それの解決(消滅)の為には、「自我の否定」「自他一体の愛の自覚」「現象(物質・迷い)の否定」「直観による絶対把握」という「悟り」を体験しなければならない。』
 上記の二つの命題は、「(A) を満足させれば、(B) が満足されず、(B) を満足させれば、(A) が満足されない」という〝二律背反〟の矛盾が生じる事になる。この二つの命題(「迷い」と「悟り」)は、「地上天国実現」の為には永遠に繰り返される事になるだろう。それは究極的な「神のゲーム」だとも言える。その「神のゲーム」の目的は、「神自身の完全円満な無限の創造」を客観的に体験する(味わう)為である。

87)「迷い」(錯覚)は、決して悪いものでもなければ、無駄なものでもない

 つまり、キリストの『御心の天になるが如く、地にも成らせ給え』という「主の祈り」の達成の為に、「心の法則」と「現象世界」が存在していると言えるのである。逆に、 「心の法則」を使った「現象有り」「物質有り」という (A) の「迷い」(錯覚)を使わねば、「主の祈り」は達成されないのである。しかし、その「心の法則」による「現象有り」「物質有り」という (A) の「迷い」(錯覚)は、無数の問題と矛盾を同時に引き起こす事になるので、(B) の「自我の否定」「自他一体の愛の自覚」「現象(物質・迷い)の否定」「直観による絶対把握」という「悟り」の境地に超入しなければならなくなる。
 実は、この二つの相矛盾する要素こそが、「神のゲーム(神の目的)」には必須の要素であると考えられるのである。故に、「心の法則」を使った「現象有り」「物質有り」という (A) の「迷い」(錯覚)は、「神の目的」にとっては必須の要素であるが故に、「現象有り」「物質有り」という「迷い」(錯覚)は、決して悪いものでもなければ、無駄なものでもないのである。

88)「疑問」のない「解答」があり得ないが如く、「迷い」のない「地上天国」もあり得ない

 この事について『神真理を告げ給う』という書籍の中で、次の様に示されている。(※この書籍は、神の啓示を受けて書かれたものと言われており、文中〝わたし〟とあるのは、〝神〟自身の意とされている。)
《「では、その本来無き迷いが、どうして恰(あたか)もあるかの如くあらわれて来るのか」という最後の問が残るのである。その最後の問に〝わたし〟は答えることにする。あなたは仏教の「煩悩即菩提」という語(ことば)をたびたび聴いたこともあるし、読んだこともあるであろう。〝迷い〟がそのまま〝菩提〟の道程であるということである。〝迷い〟という「菩提(さとり)とは別なもの」があるのではないのである。〝迷い〟と見えているものが、実は〝悟り〟が動き出し、現象化しつつある道程であるから、〝迷い〟本来無しといい得るのである。あなた達が〝迷い〟だと思っているものは、実は〝わたし〟が〝神の国〟を地上に顕現するための土台又は地盤になるための精神的基礎工事を行うために授けたところのものなのである。》(谷口雅春著『神真理を告げ給う』44pより抜萃)
 ここには、『〝迷い〟とは〝神の国〟を地上に顕現するための土台又は地盤になるための精神的基礎工事』と示されており、同時に『「煩悩即菩提」であって、〝迷い〟がそのまま〝菩提〟の道程である』と示されている事に注目すべきである。
 これを喩えれば、「解答」を見つけ出す為には、必ず「疑問」を通らねばならない事と同じと言える。即ち「解答」は「地上天国」に当たり、「疑問」は「迷い」に当たる事になり、「地上天国」を見つけ出す為には、必ず「迷い」を通らねばならないと言う事になる。「疑問」のない「解答」があり得ないが如く、「迷い」のない「地上天国」もあり得ないと言えるのである。しかし、「解答(真理)」を発見するには、「既に内在する真理の世界」に自らが超入する必要があるのである。その為には、「迷い(疑問)の世界」に対する執着(心の縛り)を解放させて、心を自由にして、「既に内在する真理の世界」に出かけて行かねばならない。その時に、「解答(真理)」は見つかり、「地上天国」が現実のものとなるのである。

89)日本民族は「迷い」を「禊祓い」で浄めつつ「悟り」を繰り返して「地上天国」を築き上げて来た

 「神の御心」が現象顕現の法則に従って「現象世界」に展開する手順には、(1) 『「心の法則」を使った「現象有り」「物質有り」の「迷い」』から始まり、(2) 『「現象(物質)否定」「迷いの否定」』を通して、(3) 『実相(神の世界)の肯定』を行なう事によって、(4) 『神の御心である「地上天国」が現象世界にも顕現する』という、一連の仕組みが存在していると考えられる。
 日本民族は、この「地上天国建設」の「宇宙の仕組み」を自覚していた民族であり、それを『古事記』の神話の形で言い伝えして来たのだと言える。そして、その自覚(思想)の通りに、日本民族は「天皇(神)」を中心とする世界に比類のない「理想国家」を築き上げて来たのであった。『古事記』には、次の様な手順が示されている。
(1) 「迷い」に遭遇した時、それを「教訓」として受け止め、心を「神の御心(高天原)」に振り向ける。(「迷い」を発見したら「神の御心」に振り向く・・・『伊邪那岐大神が、黄泉の国から黄泉比良坂に逃げ帰る神話』)
(2) 「迷いの自壊作用」が生じると、罪穢れが浄化される「禊祓い」として受け止める。(迷いの自壊作用を「禊祓い」として受け止める・・・『伊邪那岐大神が「禊祓い」を行なった神話』)
(3) 「禊祓い」によって浄化される事で、心身が清められると、「神の御心」「神の世界」(高天原)が心ではっきりと自覚できる。(「神の世界」を自覚する=「悟り」・・・『天照大御神の誕生神話』)
(4) 「神の御心」「神の世界」(高天原)が心ではっきりと自覚できる事によって、「現象世界」に「地上天国」が映し出される。(「現象世界」に「地上天国」が現れる・・・『天孫降臨によって、国津神が天津神に「国譲り」を行なった神話、並びに、その後の神武建国と歴代天皇の歴史』)
 この『古事記』に示された「地上天国建設」実現の手順に従って、その行程を日本民族は延々と実行して来たのである。故に「日本国家」は、世界に類例を見ない「天国的国家」を作り上げる事が出来たのである。この『古事記』の手順は、世界中の「地上天国」実現の「雛形」とも言える。この「雛形」に従う時、全ての人間、民族、宗教、国家は、それぞれの特徴をそのままに生かしながら、素晴らしい「地上天国」を実現する事が出来ると考えられるのである。

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