62/【天皇の継続性−7】『古事記』は「人間は神の子」の思想を貫いている

54)ユダヤ・キリスト教文明の信仰のあり方はどこか間違っている

 西欧諸国はユダヤ・キリスト教文明が中心となって発展して来たのであるから、神に対する信仰心は極めて強いと言える。しかし、西欧の文化・宗教は、唯物思想に翻弄され、数千年に渡って殺戮と侵略の歴史を繰り返して来た。その理由は一体どこにあるのだろうか。抽象的概念の「神への信仰」を唱えても、「今此処の一瞬」に「神の御心」を具体的に発見し、その「今の一瞬の生命」に自己を捧げる生き方を実践できない限り、所謂「野狐禅」は繰り返され、現実世界に「神の国」を顕現する事は出来ない。それが為に、悲惨な歴史を繰り返して来たと考えられる。殺戮と侵略の悲惨な歴史は、どう考えても「神の国」の理想とは言い難い。つまり、殺戮と侵略の西欧諸国の歴史そのものが、どこかにユダヤ・キリスト教文明の信仰のあり方が間違っていることを暗示していると考えられる。

55)西欧の文化・宗教が、唯物思想に翻弄され、数千年に渡って殺戮と侵略の歴史を繰り返して来た最大の理由

 何故、ユダヤ・キリスト教文明では、神に対する強い信仰心を持っていたにも関わらず、現実社会に「神の国」が顕現せられず、殺戮と侵略の悲惨な歴史を呈してきたのだろうか。その究極の解答は、『旧約聖書』の基本概念に隠されている。ユダヤ教もキリスト教も、『旧約聖書』を信じている点において共通している。(イスラム教も同様である。)『旧約聖書』には、「人間は土の塵にて作られた」とされ、「神との〝約束(契約)〟に反して、アダムとイブが〝智慧の木の実〟を食べた」事が原因となって、人類は『原罪』を持ったと書かれている。この神話は、神と人間は、「創造主」と「被造物」の関係であり、「支配」「被支配」の関係である事を示している。この思想(信仰)は、「神」と「人間」との関係を分離する思想である。
 つまり、「神の国」と「人間の世界」とは別物であり、「神の国」は「絶対善の世界」であるが、「人間の世界」は「罪と罰」を払拭する事ができない「悪の世界」であると信じていることになる。この根本思想を『旧約聖書』が持っている為に、その思想を信ずる民族は、自分達が信じた通りに「罪と罰」が払拭できない「不幸な世界」を環境に現すことになり、幸福になることを自らが拒んでいるのである。それは近代の精神分析学の大家フロイトが、「自己破壊本能」として発見した所のものである。これらの「自己破壊本能」に翻弄されている人々を解放する道は、『原罪』の否定であり、その為には「人間は土の塵にて作られた」という間違った唯物的神話の否定と、正しい人間観を持つ事である。その正しい人間観とは、『古事記』が示す所の「神が人間を〝生んだ〟」思想、即ちキリストが示した「人間は神の子である」という「神と人間との一体感」以外にはないのである。「人間は土の塵にて作られた」という間違った唯物的神話の否定と、「人間は神の子である」という真理を自覚する為には、どうすれば良いのか。その答えは唯一つ、「現象は無い」「物質は無い」事を知る必要があるのである。

56)『旧約聖書』における悲惨な歴史を解決する為にキリストが誕生した

 この事を伝える為に現れたのが、イエス・キリストだった。それはユダヤ民族の『旧約聖書』の最も足らざる根本真理を補完して、『旧約聖書』の神話を完成せしむる為であった。キリストは「人間は神の子である」という根本真理を自覚し、同時に「吾が国はこの世の国にあらず」(現象世界・物質世界は本当の世界ではない)との自覚を持っておられたのである。キリストの信仰は「我は神の子なり」と「現象世界は本当の世界ではなく、信念の映しの世界に過ぎない」との自覚に基づいていたが故に、「自分は神の子である」(神と一体である)との信念の通りに、現象世界(心の影の世界)も自動的に「神の国の映し」となり、様々な奇跡的体験(神の国の反映)を人々に現したのである。キリストは「既に神の国は今此処にある」という自覚によって、『旧約聖書』の説く「心の法則」(現象顕現の法則)の真理を正しく成就させた事になる。キリストの《御国をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。》との「主の祈り」は、「既に神の御心は神の世界に実在している」との信念に裏付けられた祈りである。その「既に神の御心は神の世界に実在している」との信念が確立しているが故に、「心の法則」に従ってキリストの信念の通りに、現象世界に「神の国の姿(神の御心)」が映し出された事になるのである。

57)『旧約聖書』は「心の法則」を説いている

 ユダヤ文化の中心に位置する『旧約聖書』は、物質世界の顕現の原理(横の真理)「三界は唯心の所現」「心の法則」つまり、一切の現象(環境に現れるもの)は、自分自身の心の姿であるという「現象顕現の法則」を表わしている。『旧約聖書』に記されている創世記第2章以降の「神」は、「ヤハウェ」であり、「心の法則」の象徴として現れた「神」と考えられる。『旧約聖書』の教えは、「心の法則」によってこの「現象世界」が規定されていることを示している。『旧約聖書』には、随所にこの「現象顕現の法則(心の法則)」的神話が語られている。その代表として書かれている神話が、アダムとイブが〝智慧の木の実〟を食べたことによる「原罪」の存在である。神(ヤハウェ)が「これだけは食べてはならない」と約束(契約)された〝智慧の木の実〟を蛇の言葉に惑わされて食べた事が原因となって、アダムとイブは「エデンの園」から追放された。これが「原罪」として、『旧約聖書』を信ずる人々を根強く苦しめて来たものだった。
 「神との約束を破って〝智慧の木の実〟を食べた事が〝罪〟である」と信じているが故に、『旧約聖書』を信じる民族は、恰も「原罪」があるが如く延々と掴み続ける事になったのである。「心で掴んだものが現象世界にあるかの如く現れて来る」のが、「心の法則(現象顕現の法則)」である。「神は決して神罰を与えない〝愛の神〟である」と信じていれば、「原罪」の概念は生じる事はないのである。『旧約聖書』を信じる民族は、「神罰がある」と自らが信じた通りに、自らの環境に「原罪」を創り出して自らを苦しめているのである。つまり、「原罪」という概念的縛りこそが、『旧約聖書』における「心の法則」の象徴と言える。「人間の信じた事が〝原因〟」となって、その人の運命を決定するのである。

58)『旧約聖書』「創世記」第1章の「エロヒム」は、「人間は神の子である」と宣言していた

 ここで問題になるのは、何故「原罪」「罪と罰」を『旧約聖書』では強調しているのかと言う事であるが、実はその根底には「人間は神の子である」という「縦の真理」の喪失が隠されているのである。
 『旧約聖書』「創世記」第2章以降に登場する神は、「ヤハウェ(エホバ)」であるが、「創世記」第1章の「天地創造」に現れる神は「エロヒム」である。「ヤハウェ」は「イスラエルの神」として信仰せられていた神であり、「心の法則」を象徴化した神と考えられる。しかし、「エロヒム」は、「永遠の父なる神」「全能の、昇栄した、万能の、最高権威の神」といった意味に使われている。『旧約聖書』「創世記」第1章の天地創造の6日目には、次の様に記されている。《26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。29 神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。30 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。》
 「われわれ(エロヒム)のかたちに、われわれにかたどって人を造り・・・」「神は自分のかたちに人を創造された。」とある様に、ここに記されている人間像は、神(エロヒム)そのままの人間を造られたのであり(最高権威の神=人間)、「それは、はなはだ良かった」と書かれ、神が造った人間は、神と同じであって「完全円満」であることを示している。『旧約聖書』「創世記」第1章の「エロヒム」は、「人間は神の子である」と宣言していたのである。ここに示されている「人間(神と全く同じ存在)」が、人間の実相生命であり、これが「神の絶対的(第一)創造」とも言うべきものである。つまり、この「神の絶対的(第一)創造」の人間が、「霊的実在の真の人間生命」の姿であり、「人間は神の子である」という「縦の真理」に当る。キリストは常にこの「人間の実相生命」を観ていたのである。

59)『旧約聖書』の編纂とエロヒム神とヤハウェ神の違い

 『旧約聖書』の「創世記」冒頭の「天地創造」に現れる神(エロヒム)と、「創世記」第2章以降に登場する神(ヤハウェ)が何故、別の神として現れているのかについて、少し触れておきたい。古代イスラエル王国(ソロモン王国)が亡びて後、北イスラエル王国と、南ユダ王国に分裂した。その北イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、そこに住んでいたイスラエル10支族は以後行方が分からなくなり、歴史から姿を消してしまった(失われた10の支族)。一方南ユダ王国は紀元前586年新バビロニアに滅ぼされバビロンに連行された(バビロン捕囚)。「バビロン捕囚」について次のような紹介がある。《バビロン捕囚になった人々は、祖国の回復を祈り、民族の拠り所として、「聖書」の編集を始めた。会堂(シナゴーク) を中心とした宗教礼拝をもち、新たに民族宗教が形成されていった。やがて紀元前538年、バビロンを征服したペルシャ帝国 によって、ユダヤ民族は祖国帰還を許され、再びイスラエルの地に戻り、エルサレムに神殿を再建する。以後、ローマによって国を滅ぼされる紀元70年までの時代は、第二神殿時代と呼ばれる。この時代に、ユダヤ教が成立したとされる。現在のように聖書がほぼ聖典化され、安息日や祭り、慣習法規が整えられ、聖書学者が登場し、口伝の言い伝えが研究された。》(『タルムードの世界』モリス・アドラー著、河合一充訳「訳者まえがき」より)
 北イスラエル王国で主に信じられてきた神が「エロヒム」であり、南ユダ王国で主に信じられた神が「ヤハウェ」だと言われている。北イスラエル王国と南ユダ王国とが分裂した経緯の一つに、この「エロヒム」と「ヤハウェ」の宗教観の相違があるものと考えられる。「失われた10の種族」は、現在の『旧約聖書』が編纂される前に世界に離散した事もあり、「口伝律法」に拘らず純粋に「エロヒム」信仰を求めて行った事は十分に考えられる。それとは反対に、イスラエルの地に帰還した南ユダ王国の子孫は、『タルムード』(口伝律法・ラビの権威)と『旧約聖書』を忠実に信じ、「ヤハウェ」を唯一最高の神として信仰する「ユダヤ至上主義」「ユダヤ選民思想」を作り上げて、今に至る事になる。その違いは極めて大きいと言える。
 (参考)《ここで聖書とは「旧約聖書」のことである。(旧約とはキリスト教の概念で、ユダヤ人はもちろんそう呼ばない。旧約という よりも「ヘブライ語聖書」というのが適訳であろう)。ヘブライ語聖書は、大まかに「モーセ五書」「預言書」「諸書」より成る。 中でも、最も重要なのが聖書の最初の五巻、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記で、伝統的にモーセの作とされて、 モーセ五書と呼ばれる。ただし、ユダヤ人による一般的な呼び名はトーラーという。》(『タルムードの世界』モリス・アドラー著、河合一充訳「訳者まえがき」より)

60)『タルムード』を絶対視するユダヤ民族が編纂した『旧約聖書』

 以上の様な経緯を鑑みる時、『旧約聖書』の編纂を、イスラエル民族の神と言われる「ヤハウェ」を唯一最高の絶対神として信仰し、『タルムード』(口伝律法)を絶対的に信ずる南ユダ王国の子孫(ユダヤ民族)が行なった事からすると、その記述の多くの部分が「ヤハウェ」が中心となるのは頷ける。
 「エロヒム」信仰は前述した通り、「永遠の父なる神」「全能の、昇栄した、万能の、最高権威の神」といった意味に使われているのに対して、「ヤハウェ」は「イスラエル民族の神」として信仰せられていた神であり、「心の法則」を象徴化した神と考えられる。この様に、『旧約聖書』の編纂は、「ユダヤ民族至上主義」「ユダヤ選民思想」の傾向にある『タルムード』を強く信仰しているユダヤ人が編纂したと同時に、「エロヒム」と「ヤハウェ」という全く別の概念の神への信仰に対する古文書が、同時に混在しているという所に、問題が隠されていると考えられる。
 「神に対する信仰」は極めて大切な事ではある。しかし「神を強く信じる」だけでは、何かが足りない事に気付かねばならない。その「神」が如何なる存在であるかの捉え方によっては、「正しい信仰」ともなれば、「野狐禅」ともなるのである。事実『タルムード』の思想である「ユダヤ民族至上主義」「ユダヤ選民思想」を持つユダヤ人が、その後どれほど苦難の歴史を辿り、世界中を悲惨の渦に落し入れたかという事実を見る時、「神に対する強い信仰」だけでは何かが不足していると言わざるを得ないのである。今「神」の概念そのものが問われていると言える。「神を信仰すれば良い」「宗教であれば良い」等と言う時代は過ぎ去らねばならない。世の中に「宗教」の顔をした「唯物論」が如何に多くあるかを、一人一人が自分の力で見抜かねばならない時代に入ったのである。

61)タルムードについての参考

 ここで正確を期す意味を含めて、『タルムード』についてWikipediaの「タルムード」より引用させて頂く。
 《タルムード(ヘブライ語: תלמוד‎ Talmud、「研究」の意)は、モーセが伝えたもう一つの律法とされる「口伝律法」を収めた文書群である。6部構成、63編から成り、ラビの教えを中心とした現代のユダヤ教の主要教派の多くが聖典として認めており、ユダヤ教徒の生活・信仰の基となっている。ただし、聖典として認められるのはあくまでヘブライ語で記述されたもののみであり、他の言語に翻訳されたものについては意味を正確に伝えていない可能性があるとして聖典とはみなされない。エルサレム・タルムード(英語版)と対比してバビロニア・タルムード(ヘブライ語版)と呼ばれることがある。》
 《成立の過程・・・ユダヤ教の伝承によれば、神はモーセに対し、書かれたトーラーとは異なる、口伝で語り継ぐべき律法をも与えたとされる。これが口伝律法(口伝のトーラー)である。時代が上って2世紀末ごろ、当時のイスラエルにおけるユダヤ人共同体の長であったユダ・ハナシー(ハナシーは称号)が、複数のラビたちを召集し、口伝律法を書物として体系的に記述する作業に着手した。その結果出来上がった文書群が「ミシュナ」である。本来、口伝で語り継ぐべき口伝律法があえて書物として編纂された理由は、一説には、第一次・第二次ユダヤ戦争を経験するに至り、ユダヤ教の存続に危機感を抱いたためであるともされる。このミシュナに対して詳細な解説が付されるようになると、その過程において、現在それぞれ、エルサレム・タルムード(またはパレスチナ・タルムート)、バビロニア・タルムードと呼ばれる、内容の全く異なる2種類のタルムードが存在するようになる。現代においてタルムードとして認識されているものは後者のバビロニア・タルムードのことで、6世紀ごろには現在の形になったと考えられている。当初、タルムードと呼ばれていたのはミシュナに付け加えられた膨大な解説文のことであったが、この解説部分は後に「ゲマラ」と呼ばれるようになり、やがてタルムードという言葉はミシュナとゲマラを併せた全体のことを指す言葉として使用されるようになった。》
 《ユダヤ教徒にとってのタルムード・・・「タルムードはユダヤ教徒の聖典である。」という解説が今まで日本では多くなされてきているが、実際のところタルムードの権威はラビ(教師)の権威のことでもある。そのため、後世におけるラビの権威を認めない立場からはタルムードの権威を認めないことになり、タルムードの権威を認めないユダヤ教の宗派も少なからず存在する。その代表とも言えるのがカライ派で、モーセのトーラーのみを聖典としラビ文書の権威を認めていない。また、シャブタイ派(サバタイ派)の流れを汲むユダヤ教においては、むしろタルムードを否定するという立場をとる。》

62)『旧約聖書』に「原罪」が現れた経緯

 『旧約聖書』に「原罪」がどこから現れたのかと言うと、『旧約聖書』の創世記第2章7の《 主なる神は土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。》と書かれている所から発生している。これは、神を「創造主」とし、人間を物質で作られた「被造物」であるとした「唯物思想」の原型である。この「唯物思想」が『旧約聖書』「創世記」第2章以降の『旧約聖書』全てを支配している。つまり、《 主なる神は土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。》との概念と、「原罪」の概念が生じた瞬間は、同時に「エロヒム」が宣言した「人間は神の子である」という「縦の真理」が喪失した瞬間でもある。「人間は神の子である」という「縦の真理」には、「人間は土の塵から造られた」という概念も「罪と罰」という概念も生じない。しかし、「被造物」という唯物思想の元では、人間の存在は不完全な「物質的存在」として信じているが故に、その「人間は不完全な物質的被造物である」という信念が〝原因〟となり、それに伴う〝結果〟は不完全なもの、即ち、「罪と罰」(原罪)を背負わなければならない事になるのである。つまり、「人間は土の塵にて造られた」(=人間は物質的存在だ)という概念が〝原因〟となって、『旧約聖書』の「原罪」の思想が生じたと考えられる。

63)「創世記」第2章以降の「ヤハウェ」信仰が、「神罰の神」「心の法則的神」の信仰をもたらした

 「創世記」第2章から現れた「ヤハウェ」(イスラエルの神)は、本来は「エロヒムの〝心の法則〟的(現象顕現の法則的)働き」を象徴する神と言える。しかし、「エロヒム」が宣言した「人間は神の子(神そのままに造られた存在)である」という根本真理を喪失した(一度忘れた)まま、「心の法則」(現象顕現の法則)の働きのみを強調し始めたと考えられる。「人間は神の子である」という根本真理の喪失(忘却)と「人間は物質である」という「唯物思想」こそが、ユダヤ思想、西洋思想の根本的問題だと言い得るのである。
 つまり、「人間は神の子である」という根本真理を忘却したままの状態で、『「神(ヤハウェ)は人間を土の塵にて造った」と宣言され、「その神との約束を破って〝智慧の木の実〟を食べた」が故に、「原罪」を持ち続け、「エデンの園」から追放された』という神話を、人々は信じたのである。即ち、「恐怖の神」「支配の神」「神罰の神」として、ユダヤ民族は「ヤハウェ(心の法則・現象顕現の法則)」を認識し始めたのである。ここに示されている「土の塵で作られた人間」観は、「人間は物質であり、罪人である」という「人間の迷いによる(第二)創造」とも言うべきものである。ここに言う「迷い」とは、「現象顕現の法則(心の法則)」によって映し出された「現象世界」(物質世界・肉体人間)が〝実在している〟と錯覚する事によって生じる「迷い」を意味している。
 『旧約聖書』「創世記」第1章「天地創造」に現れた「エロヒム」による「神の絶対的(第一)創造」(人間は神の子である)は「縦の真理」に当るが、それに対して「創世記」第2章以降に登場する「ヤハウェ」神による「現象顕現の法則(心の法則)」の働きは、「横の真理」に当る。

64)「現象」も「物質」もある様に見えているだけで、それは「心の影」であって「本来無い」

 ここで《「現象顕現の法則(心の法則)」によって映し出された「現象世界」(物質世界・肉体人間)が〝実在している〟と錯覚する事によって生じる「迷い」》と書いている意味について、少し脱線するようだが補足しておきたい。それは「現象はない」「物質はない」という真理である。この事を正しく理解する事は真理を悟る上で、又この宇宙の仕組みを知る上でも極めて重要な事である。この「現象はない」「物質はない」という真理を正しく理解しない限り、「現象はある」「物質はある」と信じている事となり、その信念(錯覚・妄想・迷い)の結果として、正しく「因果の法則」(現象顕現の法則)を活用する事が出来なくなるのである。
 それは何故かと言うと、「現象(物質)」は「結果(影)」であり、そのもの自体に「自主性」も「主体性」もないし、本来「実在していない」のである。「無いものを有る」と勘違いする「心の妄想」を抱いているが故に、その人の「心の影」として現れる「現象世界(環境)」は、「不完全な世界(妄想の映し)」が現れざるを得ないからである。
 「影」という「結果」を映し出すには、「原因」となる「光」とその光を屈折させたり遮断する「曇り(迷い)」が存在する必要がある。その「光」(神の御心)と、「曇り」(心のレンズ・迷い)の作用によって、スクリーンに明暗様々な「影」が映し出される事になる。この現象世界(時間空間の世界)に映し出された「物質」もそれと同じ事であって、「神の光源」が源にあり、「心のレンズ」を通す事によって、時間空間の現象のスクリーンに「物質」となって映し出されているのである。「現象」や「物質」は、飽く迄「時間空間のスクリーン」に映し出された「心の影」に過ぎない。「影」は「無い」のである。それは「映し」に過ぎない。つまり、「現象」も「物質」もある様に見えているだけで、それは「心の影」であって「本来無い」のである。

65)東洋文化は「物質無し」「唯心所現」を基本とし、西洋文化は「物質有り」「因果の法則」を基本としている

 それにも関わらず、その「結果(影)」に過ぎない「現象(物質)」を「ある」と信じ込んでいる事自体が、根本的な間違いであり「迷い」である。「結果(影)」は飽く迄「結果(影)」であって、「原因(光)」とはなり得ないのである。この「物質がある」と思い込んでいる事が「唯物思想」であって、人類の「迷い」の最も本質的なものである。「物質無し」を悟ることが、「真理」を悟る最大のポイントとなる。人間が「物質がある」「現象がある」と思い込んでいる内は、たとえ「神を真剣に信仰している」人であっても、潜在意識の根底では、「物質がある」という「迷い」に囚われているが故に、その潜在意識の「唯物論的〝迷い〟」が原因となって、その人の環境には戦争・闘争・殺人・病気・苦悩・不幸等々の「現象世界の矛盾的問題」が多々現れる事になるのである。
 釈迦は「般若心経」で「色即是空、空即是色」(物質無し)を説くと同時に、「唯心所現」(現象世界は心の現れである)と説いている。この釈迦の仏教に象徴されるように、東洋文化は「物質無し」「唯心所現」を基本としている。それに対して、西洋文化は『旧約聖書』に象徴される如く、「心の法則」(因果の法則・現象顕現の法則)を説きつつ、「人間は土の塵から作られた被造物である」とする「物質有り」(唯物思想)を基本としている点において、決定的違いがあると言える。『旧約聖書』を基盤とする西洋文明は、「神に対する熱心な信仰」があるにも関わらず、様々な問題を歴史上生み出しているのは、根底に「物質がある」「現象がある」という「唯物論」を否定する事が出来ない為である。

66)日本の『古事記』は「人間は神の子」の思想を貫いている

 日本文化においては、東洋文化と仏教の「物質無し」「唯心所現」の精神を包含しながら、「唯神一元論」とも言うべき「神一元の宇宙観」によって成り立っていると言える所に大きな相違が見られる。『古事記』の最も特徴的な概念は、「神から森羅万象が〝生まれた〟」思想と言える。「神から神々が生れ」「神から人間が生れ」「神から森羅万象が生まれた」経緯が、神話の形で記されているのが『古事記』である。その〝生まれる〟という思想は、「〝生んだ〟神」と、「〝生まれた〟人間」が一体の「神」である事を意味している。
 それに対して『旧約聖書』の基本概念は、「神が森羅万象を〝創った〟」という神話である。故に『旧約聖書』下の信仰は、「神」は「創造主」であり、「人間」は「被造物」となり、「支配・被支配」「神我分離」の概念を生み出し、「人間は被造物である」とする「唯物思想」に発展する事になる。この「唯物思想」と「支配・被支配」の結果として、西洋文明は宗教弾圧と侵略と破壊の歴史を辿る事になったと言える。
 「神我一体」「人間も森羅万象も神である」という、日本の『古事記』の思想下においては、「天皇(神)」を中心とした平和で豊かな統一的家族国家が、長年月に渡って成立し得たのである。その民族が信じる思想・信仰が、その民族の歴史を作るのは、「心の法則」が歴然として働いているからなのである。逆の意味において、『旧約聖書』を信じる民族は、「唯物思想」を持っているが故に、西洋文明の如き唯物社会を形成し、支配・被支配の侵略的、闘争的歴史を持つ事になったのも、「心の法則」の為せる業である。しかし間違ってはならない事は、その民族、その人物の環境を左右する原動力は、その民族とその人物自身の「信念」により決定せられるのであり、「心の法則」(ヤハウェ・神)の所為ではない。

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