古-7/[1章6節] 「物質科学文明」と「唯物二元論的〝迷い〟」の意義

「物質科学文明」や「唯物二元論的〝迷い〟」は、人間として必ず通らねばならない一課程である。
誰でも、最初は「物質に対する執着」「欲」を持たねばならない。その事自体悪いのではなく、「そのままでいい」と思っているのが悪い。その状態で停滞している限り、色々な問題が起こって人間を苦しめる。
それを超克する道は、「無我」「無私」「無欲」の道であって、それが『古事記』の精神、日本精神となっている。
その一番の象徴が「天皇」の御存在だろう。日本国民はその生き方「惟神の道」「天照大御神の御心」を昔から習って来た。

「物質科学文明」や「唯物二元論的〝迷い〟」によって、「物質がある」と考えて執着した後、それを超越する「物質無し」の「無我」「無欲」の思想に辿り着いた時、真の幸福と平和が訪れる事を、『古事記』は教えてくれている。その実践が「神道」であり「日本精神」だと思う。

世界中の人々は、いずれ「日本精神」を取り入れ、『古事記』を学び始めるだろう。
              (あまむし)


 以下は、ウェブサイト【『古事記』は地球問題の解答書】(うらしま たろう著)からの転載です。


   引用元「ふることぶみねっと」
      【『古事記』は地球問題の解答書】
      http://furukotobumi.net/01chapter/01c-06.html


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『古事記』は地球問題の解答書

---- 時空の迷いを断つ『古事記(ふることぶみ)』----

第1章/『古事記』と「神道」の世界的歴史的意義について
[6節] 「物質科学文明」と「唯物二元論的〝迷い〟」の意義


1)進歩発展に不可欠な絶対要素を持つ「物質科学文明」と「唯物二元論的〝迷い〟」

 『旧約聖書』の特徴と考えられる、「物質科学文明」と「唯物二元論的〝迷い〟」の意義について、考察しておく必要があります。それは、前節の「『旧約聖書』の思想が何故悲劇をもたらしたか」において、『旧約聖書』文明の悲観的要素のみを強調しましたので、ここでは肯定的要素も考察しておきたいと思います。実は、『旧約聖書』文明の特徴である所の「物質科学文明」と「唯物二元論的〝迷い〟」の存在は、人類の進歩発展の為には不可欠な絶対要素を持っているということです。


2)『古事記』に現れた「唯物二元論的〝迷い〟」(=穢れ、二心)

 具体的にどう言う事かと言うと、「唯物二元論的〝迷い〟」と見えるものは、誰もが経験している問題であり、「日本文化」の中でも、全く同じ様な「唯物二元論的〝迷い〟」が常時現れています。その「迷い」を、「神道」では「穢れ」(気枯れ)とか、「ふたごころ(二心)」等と呼んできました。その「穢れ」の最も象徴的神話が、「伊邪那美大神」が「黄泉の国(よみのくに)」に行かれた神話として『古事記』に記されています。「ふたごころ(二心)」は、元々一つであった「神」が「分離したように錯覚する」ことを現しています。現象の世界(時間空間の世界)で、吾々が「肉体人間の感覚器官」を通して観察する時、あらゆる物を「別々の存在」として分離させ認識していることが、「ふたごころ(二心)」と言えます。西欧の物質科学の「根本思想」が、この「別々に分離した物質世界」が存在しているという所の、「唯物的概念(唯物二元論)」の世界観であります。


3)一体の神が分離したと認識(錯覚)した時、伊邪那美命は「黄泉の国(死の国)」に行かれた

 『古事記』の「伊邪那美大神」が、本来一体の筈の「伊邪那岐大神」と分離して、「黄泉の国(死の国)」に行かれた神話は、「唯物二元論的〝迷い〟」の世界を経験している象徴と考えられます。つまり、「日本文化」の根本である所の『古事記』においても、本来一体なる「神」が、「伊邪那岐大神」「伊邪那美大神」の陽陰二神として表現されています。しかし、それらは決して分離した存在ではなく、二つに分かれている様に見えているだけで、常に一体となって働き、「神生み」「国生み」をされているのです。その一見分れて見える二神が、「分離」してバラバラになったように「認識(錯覚)」した時、「伊邪那美大神」は「黄泉の国(死の国)」に行かれたという象徴をもって示されています。


4)宇宙生成の無限成長は、弁証法的に展開する

 この「唯物二元論的〝迷い〟」によって、一時的に「分離状態」に陥る事は、この世界の基本的「定め」であると言えるのであり、そのこと自体が悪いのではありません。それは、ヘーゲルの「弁証法」哲学で言う所の、「正反合」の宇宙生成の無限成長のシステムというべきものであります。「正」に対する「反」は、決して不要なものではなく、逆にその後に来るであろう「合」の為の、「呼び水」の働きとも言えます。例えば、ある「発見、発明」(合)をする為には、「現状」(正)に対する「疑問、否定」(反)がなければ、「発見、発明」(合)は生じません。「発見、発明」(合)をもたらす原動力は、まさに「疑問、否定」(反)の力にあると言えます。


5)「疑問、否定」(反)に当るのが、「唯物二元論的〝迷い〟」

 それと同じ様に、宇宙の基本原則とも言える「正反合」を成就させる為には、「正」に対する「反」がなければならないという事になります。その「疑問、否定」(反)に当るのが、「唯物二元論的〝迷い〟」であります。西欧の「物質文明」は、人類に「多大な進歩」を与えたと同時に、「悲惨な運命」をも与えました。それらは、「疑問、否定」(反)に当るものですが、そのままでは更なる「進歩」や「平和」はもたらされません。


6)「合」に当る存在が『古事記』「神道」「日本文化」

 その次に登場すべきは、「合」です。「正反合」が整った時、人類の「無限成長」が成就すると考えられます。その「合」に当る存在が『古事記』「神道」「日本文化」であると考えられます。ここでは、煩雑になるので「合」についての記述は省きますが、「唯物二元論的〝迷い〟」の存在、つまり『旧約聖書』に基づいた「西欧文明」を全面否定するのではなく、人類進化の「疑問、否定」(反)の位置付けにおいて、「絶対価値」を有している事を十分理解しておく必要がある、という事を強調するにとどめたいと思います。


7)「唯物的段階」で停滞し「精神的霊的向上」に向かわない事が〝悪〟

 『衣食足って礼節を知る』という故事がありますが、誰でも先ずは「肉体的」「現象的」「物質的」成長を遂げた後、「精神的」「霊的」「魂的」成長に向かうと言えます。「衣食足る」ことが悪い事ではないように、「物質科学文明」が悪い筈がありません。ただ、その「唯物的段階」で停滞して、次なる「精神的霊的向上」に向かわない事が、「悪」と言えるのです。西欧の「物質科学文明」が世界中を席巻したこの20世紀が終わり、これから始まろうとしているのは、「精神的、霊的、魂的向上の時代」であると考えられます。その「鍵」を握っているのが、『古事記』「神道」「日本」であると思います。


        「ふることぶみねっと」
          うらしま たろう

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