あまむし庵   (´・ω・`)

アクセスカウンタ

zoom RSS 4/中心帰一 その一/現象の迷いの否定を通さない「中心帰一」は中心帰一ではない

<<   作成日時 : 2014/06/17 14:22   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 4 / トラックバック 0 / コメント 0

 三回に亘って「中心帰一」について考えてみたいと思います。この話題は国家論、組織論で述べられることが多いが、さらに宇宙の成り立ちにも関連することでもあります。私自身ご縁のあった生長の家で、特に強調されて使われているのですが、この「中心帰一」の使われ方によって、様々な疑義が生ずるにあたり、一言持論を公表することとなった次第です。ご興味のない方はスルーして下さい。
 ここで使う用語は、あえて生長の家詩友に向けた独特の言葉使いをそのまま使用しているので、生長の家をご存知でない方には若干の違和感があることを予めお断り申し上げます。


****************

 現象に現れている事象は、実相のイメージと人間智の迷い(欲、自我意識、闘争心 etc.)で屈折したものとの混合物です。現象に現れたルールにしても、形式にしても、組織にしても、教義にしても・・・総てが両者の混合物です。その混合物たる現象化したものに対して中心帰一することは、そこに含まれている「迷い」に対しても自分自身が屈服することを意味しています。

 真の中心帰一は、「実相に中心帰一する」ということです。「実相に中心帰一する」ためにはどうすればいいのでしょうか? 実相を現象世界に現し出す方法の大原則は「現象の迷いを否定する」ところにあります。現象の迷いを否定すること自体、実はその奥に隠されている「実相」を直感的に既に知っているからに外なりません。実相(本物の自分)を魂の奥底の自分が既に知っているからこそ、違和感が生じ「迷い」を否定する力となります。

 即ち、「実相に中心帰一する」ということは、まず現状の迷いを明確に峻別することが第一なのです。つまり実相(本物の自分)を観る(神想観する)ことによって、現象に混在する「迷い」が自動的に峻別されるわけです。次にそこに含まれている「迷い」を否定し去ることです。つまり現象に混在する「迷い」に妥協せず、はっきりと否定する必要があるのです。「こいつは偽物だ!」と。キリストはサタンを見つけ出した時「サタンよ去れ!」と一括し、自身の心の中に潜む「迷い」を一刀両断切り捨てたのです。これが出来ぬようでは、百万遍の説教も糞の役にもたちませぬ。

 その行為を通してのみ、現象世界に実相が展開することになります。実相が展開した現象に対しては、中心帰一が無理なく可能となります。強制や義務ではなく、不思議と人々が中心者に帰一したくなるものなのです。言葉を替えれば、「実相に中心帰一」したことによって、「現象に混在していた迷いを否定」でき、結果的に現れた「実相の展開としての現象の中心者にも帰一」できることになるのです。

 生長の家は「否定の否定の否定の極地」と谷口雅春先生は云われました。これはとても大切な言葉です。現象の迷いの否定が出来ていない人間は、結局は実相を現し出すことは不完全だということです。現状の組織、教義を観察するに、そこに混在している様々な「迷い」の観念をどれだけ否定し去ることが出来ているか、というところに本質的な課題があるのです。

 雅春先生の凄さは色々あるでしょうが、一言で申せば、「現象否定の極地を実体験された」という点なのです。「生命の実相」自伝編に明瞭に書かれていますが、資本主義は勿論のこと、弱肉強食の世界の否定、自分が他を犠牲にして生きる事も否定し、最終的には「この世界の創造神」をも否定したところに、雅春先生の偉大さ、深刻さ、探究心の徹底が見られます。そのように現象に現れているものに対する「迷い」の否定が徹底されていればこそ、先生に唯神実相哲学が天下ったと云えます。「否定の否定の否定の極地に実相が現れる」ことのよい証明といえます。

 生長の家を学ぶということは、雅春先生の求道の姿勢を我がものとする、とも解し得るのです。先生が説かれた真理を学習し理解するだけでは、その真髄に触れることは出来ないのです。何故雅春先生に唯神実相哲学が天下ったか? さらにその真髄を自分自身が受け止めるためにはどうすればいいか? その醍醐味を我がモノとするためのヒントがここにあるのです。

 その後の生長の家の後継者にそれほどの現象否定の荒技を期待するのは難しいかもしれません。しかし、否定の極地に立たぬ限り、生長の家の醍醐味など判るものではありません。その現象否定の徹底を通した上での実相大肯定であればこそ、大いなる魅力、悟りが現れるのです。

 今の総裁は、雅春先生を否定し、日本の国体を否定しています。天地一切の物と感謝し和解するのが、生長の家の根本的生き方でありますが、これでは逆の生き方となります。自身の外部に現れたものに対しての否定ではなく、自分自身の内なる「自我」の否定こそ求められるべきことではないでしょうか。実相の大肯定への入口は、現象否定、物質否定を通らねばならぬのです。そして、現象否定、物質否定のためには、現象の自己の否定以外に方法はないのです。他を否定して、自己をのさばらせている様では、「実相」も「神」も見出す事は不可能であります。

 なぜなら、「現象世界は自身の心の展開である」ことは、絶対的に真理であるからです。「因果眩まさず」です。自身の心の中で「自我」を掴んでいては、現象世界に「実相の写し」が現れることはあり得ません。

 現在の教団組織の幹部や信徒さんたちが、誰に中心帰一なさるかはその人の自由でありますが、生長の家の真理を真剣に学ぶ気持ちがあるのであれば、雅春先生の自伝編でももう一度読まれて、先生の生き様、信仰姿勢、悟りが天下った経緯を学んでみては如何でしょうか。一人一人の悟りというものも、又同じ道筋を通して天下って来るのですから。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 4
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
4/中心帰一 その一/現象の迷いの否定を通さない「中心帰一」は中心帰一ではない あまむし庵   (´・ω・`)/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる