21/〝久遠の今〟シリーズ(3)/〝久遠の今〟を知れば、一切の問題が雲散霧消する

 〝久遠の今〟シリーズの第三弾です。今回は、『〝久遠の今〟この宇宙は神によって創造されている』この事実を知っていさえすれば、唯物論に囚(とら)われる心配はなくなり、一切の問題が雲散霧消することを、考察します。

  合掌礼拝
               ©2014あまむし


21-1) 「物質や時間は有る」という妄想から、物質への執着が生まれる
21-2) 時間空間は、神が人間に与えたところの架空的観念である
21-3) 物質への執着は、「今の一瞬」を生き切っていないことの証明
21-4) 「物質有り」の執着が、恐怖心、奪い合い、戦争、破壊を招く
21-5) 「時間と物質の継続」自体が、「神の無限供給」を証明している
21-6) 神が創造せられたものだけが実在する
21-7) 「真象」は消えないが、「偽象」は消える
21-8) 「久遠の今」を知れば、一切の問題が雲散霧消する


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21-1) 「物質や時間は有る」という妄想から、物質への執着が生まれる

〈21-1-1 人は何故「無い物質」に執着するのか〉
 人は何故「無い物質」に執着するのでしょうか。執着の原因は色々と考えられそうですが、一つには、「今ある物質が無くなってしまえば、復活できないので、いつまでも大切にして、次の瞬間にも〝継続維持〟させておこう」という観念(執着)が働くと見えます。「物質を継続的に保持したい」という考えが、「時間の継続」という概念をより強固なものにしているのかも知れません。

〈21-1-2「物質や時間は有る」という妄想から、物質への執着が生まれる〉
 つまり、「物質が無くなると困る」と思い込んでいるのでしょう。これを裏返して言えば、「物質は有る」「時間は継続している(時間は有る)」と信じているということなのです。「物質が無くなると困る」という恐怖心は、実はこの「物質は有る」「時間は継続している(時間は有る)」という概念の縛りから発生している「妄想」なのです。

〈21-1-3 『四次元世界で認識された瞬間〝物質は無い〟』筈なのに物質に執着する〉
 しかし、元々「物質は無い」のですから、「物質が無くなると困る」という考え方自体が、全くおかしな考え方であることが分かります。『瞬間瞬間消えてなくなっている筈の物質』・・・いえいえもっと正確に申せば、『物質として四次元世界で認識された瞬間、既に〝物質は無い〟』筈なのです。それなのに、人間は「物質が無くなると困る」と思ってしまうのです。『時間空間の四次元世界に現れた事自体が、消滅を意味している』のです。

注)「四次元世界」とは、「三次元の空間」と、「時間の一次元」を足したのが「四次元世界」です。

〈21-1-4 「物質が存在している」という神のマジック〉
 このことは全く奇妙なことなのです。「物質が継続的に存在している」と思えるのは、神が瞬間瞬間一切万物を創造しているからであります。神が〝久遠の今〟創造されているということは、瞬間瞬間新しい物質として現し出される、ということなのです。つまり、一瞬一瞬目の前に現れているように見えている「物質」自体が「映し出された影」であり、「無い」のであります。「物質は影」でありますから、現れた次の一瞬その「物質的イメージ」さえも消え去っているのです。そして、次の瞬間又神が現しているので、「物質と見える影」が持続したり、運動したりしているように感じているだけなのであります。これはまさに「神のマジック」と言えます。

〈21-1-5 「実体の無い影(イメージ)」の連続に執着している〉
 「無い物質」に執着しているのは、「実体の無い影(イメージ)」に執着しているということです。その「影」が連続して神によって投影されているので、人間は「物資が存在している」と誤解して、執着するのであります。


21-2) 時間空間は、神が人間に与えたところの架空的観念である

〈21-2-1 「時間の継続」「時間が有る」と思っているが、「時間は無い」〉
 実は時間の継続があるのではなく、一瞬一瞬、「新しい別の創造」が神によってなされている、というのが真実であります。それを現象人間の「物質有り」とする見方からすると、「時間の継続」と感じるのです。言葉を変えれば、「時間が有る」という考え方です。実は「時間」は本来無いのです。

〈21-2-2 「生命(実在)は始めも終わりもない」と聖経に示されている〉
 『甘露の法雨』の「実在」の項に《生命は生を知って死を知らず。生命は実在の又の名、実在は始めなく終りなく、滅びなく、死なきが故に、生命も亦始めなく、終わりなく、亡びなく、死滅なし。生命は時間の尺度のうちにあらず、老朽の尺度のうちにあらず、却って時間は生命の掌中にあり、これを握れば一点となり、これを開けば無窮となる。若しと思う者は忽ち若返り、老いたりと思う者は忽ち老い朽(く)つるも宜(むべ)なるかな。》(聖経『甘露の法雨』より一部引用)とありますように、「生命(実在)」は始めも終わりもないと観世音菩薩が明言されています。「時間」は無いのであります。即ち、「時間の継続」という実体は無いのであります。

〈21-2-3 「時間の継続」と「物質の持続」とは表裏一体の「迷い」〉
 「時間の継続」と「物質の持続」とは表裏一体の概念でありまして、この概念に囚われていますと、「物質無し」の本来の自由自在の生き方に支障が出て来るのです。これが「迷い」なのです。

〈21-2-4 空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず〉
 「時間の継続」も「物質」も無いのでありまして、「物質」と見えていた元のものは、神の一瞬一瞬の創造から発した「光のような霊的素材」であり、その「霊的素材(実在)」が、時間空間という「認識のスクリーン(認識の形式)」であるところの、仮相概念の膜に投影された「影」であったのです。

  聖経『甘露の法雨』「実在」の項には、《空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず》と記されています。《空間も亦決して生命を限定(かぎ)るものにはあらず、空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず、生命は主にして空間は従なり。空間の上に投影されたる生命の放射せる観念の紋(あや)、これを称して物質と云う。物質は本来無にして自性なく力なし。これに性質あり、また生命を支配する力あるかの如き観を呈するは 生命が『認識の形式』を通過する際に起したる『歪み』なり。汝ら、この『歪み』に捉われることなく、生命の実相を正観せよ。生命の実相を知る者は 因縁を超越して生命本来の歪みなき円相的自由を獲得せん。》(聖経『甘露の法雨』より)

〈21-2-5 空間も時間も、神のアイディアの展開である〉
 さらに、『神真理を告げ給う』には「空間、時間」について、このように記されているのであります。《空間も時間も、〝わたし〟のアイディアの展開である。〝わたし〟が〝空間〟というアイディアを引っ込めれば、〝空間〟はなくなり、〝わたし〟が〝時間〟というアイディアを引っ込めれば〝時間〟がなくなる。〝時間〟も〝空間〟も、〝わたし〟が現象界に〝わたし〟のアイディアを演出するための舞台とその持続をあらわすために〝わたし〟がつくった認識の形式に過ぎないのである。》(谷口雅春著『神真理を告げ給う』40頁より)

注)『神真理を告げ給う』には、谷口雅春先生を通して〝神〟が直接書かれたものである、と記されています。この書籍中の〝わたし〟とは、〝神御自身〟のことです。

〈21-2-6 時間空間は、神が人間に与えたところの架空的観念である〉
 さらに、《時間及び空間というものは本来ない。実相世界は超時空的存在の世界であるからである。時間の観念、空間の観念は物質的存在を心に描くための謂わば〝画布(カンバス)〟として必要なので〝わたし〟が人間に与えたところの架空的観念である。》(同書40頁より)


21-3) 物質への執着は、「今の一瞬」を生き切っていないことの証明

〈21-3-1 「今」を生きれば過去の概念は侵入せず、「物質」に執着し得ない〉
 「神の一瞬一瞬の創造」とも申しましたが、このことを谷口雅春先生は「久遠の今」と称され、「今を生きよ!」と諭(さと)されました。「久遠の今」「今を生きる」生き方には、「過去(=無い=物質)」の概念は侵入し得ないのでありますから、「既に過去である無い物質」に執着のしようがないのであります。逆に言いますと、「物質に執着」するということは、「久遠の今の一瞬一瞬」を生き切っていないことの、証明とも言えるのです。

〈21-3-2 「生きる」とは、「今の一瞬の神の創造」を指す〉
 万物の実相をありのままに、「霊的存在」であり、「神の一瞬一瞬の創造から発した〝光のような霊的素材〟」として観ている限りにおいては、「物質的執着」という観念は、起こらないのであります。神は「久遠の今」一瞬一瞬に、宇宙一切万物を創造し続けられているのでありますから、一切万物を「神の現れ」として「拝ませて頂く」世界には、「物質に対する執着」は生まれないのであります。畢竟、「生きる」とは、「今の一瞬の神の創造」を指すのであります。


21-4) 「物質有り」の執着が、恐怖心、奪い合い、戦争、破壊を招く

〈21-4-1 永遠に神の創造は続くから、目前の物質にしがみつく必要がない〉
 以上の様に、「一切万物を神の創造として拝む」という行為には、「物質に執着する」等と言う観念は、生まれないのであります。一瞬一瞬神が一切万物(物質として投影される元の実在)を創造せられているのであり、今後も永遠に神の創造は続くのでありますから、別段、今ある「目前の物質的存在」にしがみつく必要が全く感じられなくなるのであります。

〈21-4-2 神は無限の理念の展開として、無尽蔵に供給し給う〉
 例え目前に現れたものが無くなったとしましても、次の瞬間、神は無限の理念の展開として、更に新しい創造をされて、幾らでもこの世界に、無尽蔵に供給し給うのであります。神が「無限の供給」であることを知らない人間は、どうしても目前の物質(過去)にしがみついてしまうのです。

〈21-4-3 「物質は無くなる」という恐怖心の具象化で、『物質が無くなる』〉
 と同時に、その人間の抱いている「目前の物質を手放したら、もう現れない」(物質は無くなるものだ)という妄想(恐怖心)の具象化として、その人の想念は『物質が無くなってしまう』という状態を現してしまうのであります。「物質は無い」のでして、どんどん無尽蔵に必要に応じて、神が現し出しているのでありますから、「物質は無くなるものだ」という概念は、妄想(恐怖心)にすぎないのです。「物質は無い」と「物質が無くなる」とは全く別の概念であります。前者は「真理」でありますが、後者は「迷い(恐怖心)」であります。

〈21-4-4 「物質は存在する」という「迷い」は、「物質が無くなる」という「恐怖心」を生む〉
 もし、目前の物質的存在にしがみつこうという観念に捉えられているならば、それは、「無くなったら困るに違いない」という一種の「恐怖心」が働いている証拠なのです。「恐怖心」があるが為に、しがみつくのであります。「この世界は物質的世界である」と、漠然とでも思っていたり見ていたりする人間の場合、「物質は存在している」と「心(心のレンズ)」に印象されます。そうすると、「もし今目前に存在する物質が無くなったら、どうしようか」というような「恐怖心」が、自動的に発生せざるを得なくなるのです。

〈21-4-5 「物質有りと思う→物質が無くなると恐怖する→物質に執着する」唯物論の連鎖反応〉
 この仕組みが「唯物論の連鎖反応」の泥沼であります。(1)「物質有りと思う」(2)「物質が無くなったら困る事になると恐怖する」(3)「物質に執着する」、という泥沼の連鎖反応であります。物質に執着すればする程、(1)の「物質有り」の意識が高まり、さらに、(2)の「物質が無くなったら困るという恐怖心」が高まり、さらにまた、(3)の「物質に執着する」ことになるのであります。

〈21-4-6 「唯物論の連鎖反応」の泥沼が、戦争、破壊、悟りをもたらす〉
 この「唯物論の連鎖反応」は、さらに物質の取り合い競争、奪い合いに発展し、国家間の戦争ともなります。「争い」「奪い合い」「戦争」は、「破壊」「崩壊」「不幸」という結果をもたらすことになります。しかし最後には、「物質に執着することの無意味さ」に気付かざるを得ないことになり、人々を「悟り」へと導くのであります。そう考えると、「唯物論」も結局は、人類を「悟り」に導く一里塚に過ぎなかった、ということにもなるわけです。

〈21-4-7 「霊的文明」の構築には、「物質・時間有り」とする「唯物論」を打破せよ〉
 人類が今後「霊的文明」を地球上に構築するためには、どうしても、この「物質有り」「時間の継続がある」とする「唯物論」を打破せねばならないのは、以上のような理由があるからであります。どんな立派な思想や信仰を把持していましても、根底に「物質有り」「時間が継続している」という「唯物論」を持っていますと、何をやっても、どんなに努力しましても、それらは本質的な解決にはならないのであります。


21-5) 「時間と物質の継続」自体が、「神の無限供給」を証明している

〈21-5-1 「神の無限創造」の事実に目覚めよ〉
 人類を真に霊的進歩に至らしめるためには、どうしても「唯物論」「物質が有る」「時間の継続」という概念の間違いに気付くことが先決となるのであります。そして、本来あるところの、「神の無限創造」という事実に目覚める必要があるのです。

〈21-5-2 今、今、今の一瞬新生されている宇宙創造の実相を知る〉
 神は今の一瞬一瞬に無限の創造をしておられるのです。この大宇宙の一切万物を一瞬一瞬新しく創り直されているのであります。これが宇宙創造の実相であるのです。その本当の創造のあり様を知ることによって、「全知全能なる神が今、今、今、今、今、今・・・・の一瞬に、常に宇宙を新しく創り直しておられる!」「今目前に物質として感じられている一切万物は、次の瞬間には、神が新しく創造し直していられる!」「何も目前の物質的存在にしがみつく必要などなかったではないか!」ということが、はっきりと分かってくるのであります。

〈21-5-3 「物質が継続的に存在する」との迷いは、「無い過去」と「〝久遠の今〟の忘却」〉
 「物質が継続的に存在している」という概念は、「物質が有る(無い過去が有る)」という概念と、「時間の継続が存在する(〝久遠の今〟の忘却)」という概念の合体であり、これは全くの「迷い」であり「勘違い」であったのです。

〈21-5-4 物質への執着は、神秘なる神の世界の探求と、新創造を疎かにする〉
 今この一瞬、大宇宙の一切万物は「新生」していたのです。これが真実でありました。「物質の継続」という「死物の残像」的概念は嘘だったのです。「物質の継続」があると漠然と思い込んでいるが為に、物質に執着し、時間に執着し、心が離れなかったのです。心が執着するので、新しい神秘なる神の世界の探求と、新創造が疎(おろそ)かになっていたのです。それは実に馬鹿馬鹿しいことでありました。小生は、そんな嘘に瞞されるのは金輪際(こんりんざい)やめにします。

〈21-5-5 「神は無限供給の源泉」であり「久遠の今」無限供給を続けておられる〉
 先ほど〈21-4-2〉において、「神が〝無限の供給〟であることを知らない人間は、どうしても目前の物質(過去)にしがみついてしまう」と申しました。この「神の無限供給」ということについて、少し補足説明させていただきます。元来「神は無限供給の源泉」であり、「久遠の今」無限供給を続けておられるのであります。それが事実なのであります。

〈21-5-6 「時間と物質の継続」自体が、「神の無限供給」を証明している〉
 「神が無限の供給」であるが故に、「物質世界が継続している」という「時間の継続」の観念が生まれているのであります。もしも「神が無限供給」でないとすれば、「久遠の今」の実在の供給が断たれるが故に、顕現された実在を客観的に観察するために存在している、「現象世界」も「物質の継続」も「時間の経過」も断絶せられて、消滅せざるを得ないことになってしまうのであります。観察が続けられること自体が、その元であるところの実在世界の無限供給が続いていることの証拠でもあるのです。即ち、「時間の継続」「物質の継続」と感じられること自体が、「神の無限供給」を証明しているようなものなのです。


21-6) 神が創造せられたものだけが実在する

〈21-6-1 「真象」と「偽象」〉
 「久遠の今、神が創造されたものは実在」なのであります。しかし、人間の「迷いのレンズ」を通してそれを映し出したものは、現象のスクリーンには「不完全」として映し出されるのであります。それは「偽象」であって、実在の写しではないのです。澄み切った人間の心を通して「神の創造」世界を映し出した場合は、「神の創造」そのものの写しであります。これを「真象」と申します。

〈21-6-2 神の創造を正しく映し出さない「偽象」は必ず自壊自滅崩壊する〉
 「真象」は、「久遠の今」の「神の創造」(実在)そのものの写しでありますから、神の創造の展開する限り崩れ去らないのであります。一時的に現象が混乱する姿が映し出されても、不死鳥のように復活するのが「真象」なのであります。それに対して「偽象」は「実在」せるものの写しではないので、必ず「自壊し崩れ去る」しかないのであります。従って、吾々人類の使命は、「神の創造にきちっと焦点を合わして〝真象〟を現し出す」以外にはないということになります。

〈21-6-3 「久遠の吾」は、常住「久遠の今」に生きている〉
 「人間」は「神の子」であって、生命でありますから、肉体人間ではありません。生命そのものである「神の子人間」は、常住「久遠の今」に生きている、生き通しの完全円満なる「久遠の吾」とも呼ぶべき実在であります。その「久遠の吾」と「心(心のレンズ)」と「現象世界に映し出された〝現象の吾〟」との関係を簡単に説明したいと思います。

〈21-6-4 「久遠の吾」が、心を使って客観世界に投影する〉
 「久遠の今」に座して(生きて)いる「久遠の吾」とは、天照大御神、塩椎大神、住吉大神と一体なる生命であります。神の働きは無限の創造であり、無限の顕現であります。故に、それぞれの働きが「個生命」(久遠の吾)となって展開しているのであります。その「久遠の吾」が、客観世界に映し出すために用意された「心」を使って、「神の創造世界(久遠の今)」を客観的に観察するために、時間空間の鏡の世界に映し出しているのであります。

〈21-6-5 「現象の吾」は「物質有り」の印象を受けているので「迷い」が生じる〉
 その時「心(心のレンズ)」は「〝久遠の今〟の世界」と「客観世界」との間を繋ぐ「道具」、又は「〝久遠の今〟の世界」を「客観世界」に映し出す「道具」として働いています。その「心」によって現象世界に映し出された「現象の吾」は、現象世界の「物質有り」の印象を受けているので、その程度に応じて「心の汚れ(迷い)」となり、正確に「久遠の今(実相世界)」の写しとならない、ということになるのであります。

〈21-6-6 「現象の吾」にも「神の印象」が刻まれているので「理想」が起こる〉
 「現象の吾」は、「久遠の今」と同時に「現象に映し出された世界」の、両方を観察する道具でありますから、どうしても「物質有り」の印象を持つのは当然であり、それは必要なのであります。しかしながら、「現象の吾」にも「神(実相)の印象」がしっかりと刻み込まれておりますので、「現象の不完全な姿」を観察した時、「本当の世界はこんな筈じゃなかった!」という「理想」が、不思議と湧き出て来るようになっているのであります。

〈21-6-7 「魂」は無限向上し、「久遠の今」の完全円満を現し出す〉
 それによって、「現象の吾」は一時的に苦しみを味わうように感じられますが、却って「現象の吾」即ち「魂」が向上し、「実相世界(久遠の今)」を強く求める働きが現れることになるのであります。結局は、如何なる状況が現象世界に映し出されましょうとも、必ず「現象の吾(魂)」は無限向上し、「久遠の今」の完全円満な実相を益々現し出すことができるようになるのであります。「久遠の今」の無限創造は、無限の時間・空間を使っても、現し出し尽くせない程に、偉大なる実在でありますから、「現象の吾(魂)」の無限向上という風に映し出すことになるのであります。


21-7) 「真象」は消えないが、「偽象」は消える

〈21-7-1 何故「真象」は崩れ去らず、「偽象」は自壊自滅するのか〉
 「真象」の元となる「久遠の今」の世界は、神の創造ですから「実在」であります。したがって、必要に応じて神の創造が「久遠の今」展開されますので、崩れ去る事無く、現象世界にも展開され続けるように見えることになります。では、何故「真象」は崩れ去らず、「偽象」は自壊自滅するのでしょうか。その謎に迫りたいと思います。

〈21-7-2 「真象」は神が間断なく創造されているので、現れ続ける〉
 「現象世界」は、「久遠の今」の神の創造を、「心」という「道具」使って「客観世界」に投影しているに過ぎませんので、「鏡の世界の奥の虚像」のように実在していないのであります。元々「時間空間」自体が存在しません。勿論「物質」として現れているもの自体が、「存在していない」のであります。しかしながら、「真象」の元となる実在は、神が「久遠の今」創造されているのです。従って「真象」は間断なく現象化して現れて見えるのです。

〈21-7-3 「心のレンズ」に「迷い」が付着している間、「偽象」は現れている〉
 それに対して、「偽象」は人間の「心のレンズ」で歪められた投影です。人間の「心のレンズ」に「迷いの曇り」が付着している間、「偽象」は現れて見えます。しかし、「迷い」をそのまま永遠に持ち続けることは、人間にとって不可能なのです。

〈21-7-4 「迷い」がなくなれば、「偽象」は消える〉
 人間の心が何時かその「迷い」の間違いに気付いて、その「迷いの心」を棄てた時には、即座にその「迷い」は消えて元々の「きれいなレンズ」に還ることでしょう。そうなると、「偽象」は消えて、神から間断なく発せられている「真象」のままの完全円満な姿が、現象のスクリーンに投影されることになります。

〈21-7-5 「迷い」は必ず自壊するので、「偽象」も必ず消える〉
 つまり、「偽象」は何時か必ず「消える運命にある」のであります。「偽象」を投影し続けているのは、「人間の心のレンズに付着した〝迷い〟の曇り」のせいでありますから、その「〝迷い〟の曇り」を拭き払った時には、「偽象」は消えざるを得ないのです。「迷い」は必ず自壊自滅する運命にありますので、必ず「偽象」も消え去ることになっているのです。唯、その時間が長いか短いかだけの問題なのです。

〈21-7-6 「実相」と「迷い」を峻別する努力で、魂は向上する〉
 「真象」と「偽象」とは、どちらも同じ様に現れていますので、その時点ではなかなか見分けがつかないのであります。この見分けのつかないことが、きっと魂の向上に必要な訓練と試練なのだと考えられます。簡単に見分けがつくようでは、何の工夫も努力も要りません。精緻なる神の叡智を獲得しようとするならば、難しい事、困難な事の中で、「実相」と「迷い」を峻別する力を養う努力をすることです。

〈21-7-7 「真象・偽象」を見極めるコツは、「現象否定」と「久遠の今」に精神集中する事〉
 しかし、それらを見極めるコツがあるとするならば、それは、如何に「現象無し」の「現象否定」を徹底し「久遠の今」に精神を集中するか、ということでありましょう。そうすれば、自然と「真象」と「偽象」の見極め方を身に付けることが出来るようになるのではないでしょうか。恐らく、他に方法はないのだと思われます。


21-8) 「久遠の今」を知れば、一切の問題が雲散霧消する

〈21-8-1 物質も時間空間も「霊的実体」を観察する道具であり、存在しない過去〉
 〝久遠の今〟三回シリーズで、「物質が無い」こと、「時間の継続が無い」こと、「空間の広がりも無い」こと・・・を、説明いたしました。それらは、真に実在する「観測し得ざる神の顕現せる実在」を、客観的に観察するための道具であり、映し出した映像に過ぎなかったことを説明しました。物質も時間空間も「観測し得ざる実在」を現し出し、観察する為に必須な道具ではありましたが、存在はしていない「過去」であったのです。

〈21-8-2 「一体なる実体」同士は、「存在」すれども「観察」できない〉
 「客観世界」は存在していなかったのです。あの「鏡」の世界を思い出して下さい。「鏡」は自分自身を観察するための道具でした。しかし、「鏡」に写った姿は存在していないのです。このように、映し出された「像」が存在しなければこそ、観察できたのでした。元来〝存在する〟とは、「一体なる実体そのもの」即ち〝神〟でありますから、「万物一切の存在の実体」は〝神〟であり、同時に〝一体〟であるのです。〝一体〟を〝愛〟と呼びます。即ち、「万物一切の存在の実体」は〝神〟であり、〝愛〟であります。〝一体〟なる者同士は、〝相手なるもの〟が無いので、「認識できない」のであります。つまり、「観察できない」のであります。「存在」すれども「観察」できない状態なのです。

〈21-8-3 「観察する」には、「自他分離」の客観世界に映し出さねばならない〉
 「万物一切の存在」を互に「認識し」「観察し合う」ためには、どうしても「自他分離」の客観世界に映し出さねばならなかったのです。そこで考案されたのが、〝時間空間の客観世界〟であったのです。この〝時間空間の四次元世界〟というスクリーンを〝認識の形式〟と『甘露の法雨』では説いています。この架空の世界に「万物一切の存在の実体」を映し出すことによって、初めて「認識し」「観察する」ことが可能となったのです。

〈21-8-4 顔と眼球は一体だから、自分では顔を観察できない〉
 それを例えて云えば、自分自身の顔を自分の目で観察することができないようなものです。自分の顔と、自分の目は一体だから、観察できないのです。顔から眼を30cm程取り出して、その眼球を顔に向ければ、初めて自分の顔を直接見られるのかも知れません。しかし、その時、顔と眼球は分離され、「死の世界」に入るのです。

〈21-8-5 「鏡」が、客観世界を作り出す「時間空間の原理」の極簡単な縮図〉
 自分の顔を観察するためには、〝鏡〟を使えばいいのです。〝鏡〟に写った自分の顔は、自分の顔には違いないですが、その写った顔は、〝虚像〟と言って〝実在の顔〟ではありません。その証拠に、〝鏡〟の前から顔をずらせば、〝鏡〟に写っていた〝虚像の顔〟は、その瞬間消えてなくなります。元々実在していなかったのです。しかし、実在はしていなくとも、「観察する」ためにはどうしてもそうする以外に方法がないのであります。この〝鏡〟が、客観世界を作り出す「時間空間の原理」の、極簡単な縮図です。

〈21-8-6 現象世界(鏡)は「神の映し」であるが「実在ではない」を教える神道〉
 日本神道では、その宇宙の仕組みを的確に捉えていたのです。天照大御神を始め神社の御神体は、ほとんどが〝御鏡(みかがみ)〟であります。それは、〝鏡〟こそ宇宙の原理そのものであり、現象世界は〝鏡〟であり、そこに写っている姿は、「神の映し」であるが、写っている姿は「実在ではない」(現象は無い、物質は無い)ことを、教えているのです。

〈21-8-7 日本神道では「無い現象(鏡)」の奥の「神の実体」を拝んでいる〉
 しかし、「神を拝む」には、仮に映し出された〝御鏡〟の姿(一切万象)を通して、その奥にまします〝神の実体〟を拝むのであります。だから、日本神道では、天地万物を神として礼拝するのであります。それは、「現象に現れた〝虚像〟」を神として拝んでいるのではなく、「無い現象(鏡)」を通して、その奥に実在する観察し得ざる〝神の実体〟を拝んでいるのであります。

〈21-8-8 「存在の実体」の過去の映像を、自らが客観的に観察している神のマジック〉
 このように、この現象宇宙に映し出されたものは、実体がない「過去(虚像)」の姿であったのです。自らの「存在の実体」の過去の映像を自らが客観的に観察しているのです。これが、神のマジックであります。恰(あたか)も「有る」と見えている「客観的存在の物質」は、実は「存在していない〝過去〟の映像」に過ぎなかったのです。例えれば、手品師のマジックに隠されているトリックを見破れない内は、観客は恰も「不思議な現象」として、意識が混乱させられるようなものであります。しかし、そのトリックを見破れば、その瞬間マジックの不思議から目が覚めて、不思議でもなんでもなくなるようなものであります。

〈21-8-9 「唯物論の泥沼」から逃れる方法は「物質があると見えるマジック」を見破ること〉
 この「物質があると見えるマジック」に引っかかると、「唯物論の連鎖反応」の泥沼に陥(おちい)ってしまいます。その罠から逃れる唯一の方法は、「物質があると見えるマジック」を見破って、「物質無し」を知ること以外に方法はないのです。その事実を見破った時、本当の「神の使命」を生きることが可能となるのです。何故かと言えば、無意識の内に掴(つか)んでいた「物質有り」の妄想により、それまで曇っていた〝心のレンズ〟が、きれいに払拭されるからです。

〈21-8-10 観察できるものは実在しない過去/実在せるものは観察し得ざるもの〉
 真に実在するのは、「久遠の今」の一瞬一瞬、神が創造せられた神的実在でありました。しかし、それ自体は肉体人間には感知できないだけのことだったのです。現象に現れて観察できるものは、「実在しない過去」であり、「実在」せるものは、「観察し得ざるもの」であったのです。

〈21-8-11 物質世界は影に過ぎず、神の実在の世界は「内」にのみある〉
 『甘露の法雨』にはキリストの言葉を引用して、物質世界が影に過ぎず、神の実在の世界は〝内〟にのみあると書かれています。《キリストは 『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり。誠に誠にわれ汝らに告げん。『汝らの内』とは汝ら『人間の自性』なり、『真の人間』なり。『汝らの内』即ち『自性』は神人なるが故に 『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして 永遠に神の国を得る事能わず。物質に神の国を追い求むる者は 夢を追うて走る者にして 永遠に神の国を建つる事能わず。キリストは又云い給えり、『吾が国は此の世の国にあらず』と。此の世の国は唯影にすぎざるなり。常楽の国土は内にのみあり、内に常楽の国土を自覚してのみ 外に常楽の国土は其の映しとして顕現せん。内に無限健康の生命を自覚してのみ 外に肉体の無限健康は其の映しとして顕現せん。人間の五官はただ『映しの世界』を見るに過ぎず。『映しの世界』を浄めんと欲すれば心の原版を浄めて 迷の汚点を除かざるべからず。われ誠に物質の世界の虚しきを見たり、物質の世界が影に過ぎざることを見たり。われはまた人間が神より放射されたる光なる事を見たり。》(聖経『甘露の法雨』より)

〈21-8-12 「物質無し」と「久遠の今」神が一切万物を創造する事実の承認〉
 肉体人間を持つ吾々人間にとって、肉体人間を使って観察し、鑑賞することが、神から与えられた「使命」でありますから、「物質」「時間空間」が存在するように観ずる事は、祝福すべき事であり、それは大変意義のあることであります。しかし、それを「有り」として囚われることは、「唯物論の連鎖反応」の泥沼に囚われ、極めて大きな支障を来すことになります。それを脱却する唯一の方法は、「物質無し」「現象無し」を見破り、その上で「久遠の今」神が宇宙の一切万物を創造し続けていられる事実を承認することであるのです。

 『〝今の一瞬(久遠の今)〟この宇宙は神によって創造されている』この事実を知っていさえすれば、唯物論に囚(とら)われる心配はなくなり、一切の問題は雲散霧消するのであります。

         (〝久遠の今〟三回シリーズ おわり)

 
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【まとめ】21/〝久遠の今〟シリーズ(3)/〝久遠の今〟を知れば、一切の問題が雲散霧消する

21-1) 「物質や時間は有る」という妄想から、物質への執着が生まれる
〈21-1-1 人は何故「無い物質」に執着するのか〉
〈21-1-2「物質や時間は有る」という妄想から、物質への執着が生まれる〉
〈21-1-3 『四次元世界で認識された瞬間〝物質は無い〟』筈なのに物質に執着する〉
〈21-1-4 「物質が存在している」という神のマジック〉
〈21-1-5 「実体の無い影(イメージ)」の連続に執着している〉

21-2) 時間空間は、神が人間に与えたところの架空的観念である
〈21-2-1 「時間の継続」「時間が有る」と思っているが、「時間は無い」〉
〈21-2-2 「生命(実在)は始めも終わりもない」と聖経に示されている〉
〈21-2-3 「時間の継続」と「物質の持続」とは表裏一体の「迷い」〉
〈21-2-4 空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず〉
〈21-2-5 空間も時間も、神のアイディアの展開である〉
〈21-2-6 時間空間は、神が人間に与えたところの架空的観念である〉

21-3) 物質への執着は、「今の一瞬」を生き切っていないことの証明
〈21-3-1 「今」を生きれば過去の概念は侵入せず、「物質」に執着し得ない〉
〈21-3-2 「生きる」とは、「今の一瞬の神の創造」を指す〉

21-4) 「物質有り」の執着が、恐怖心、奪い合い、戦争、破壊を招く
〈21-4-1 永遠に神の創造は続くから、目前の物質にしがみつく必要がない〉
〈21-4-2 神は無限の理念の展開として、無尽蔵に供給し給う〉
〈21-4-3 「物質は無くなる」という恐怖心の具象化で、『物質が無くなる』〉
〈21-4-4 「物質は存在する」という「迷い」は、「物質が無くなる」という「恐怖心」を生む〉
〈21-4-5 「物質有りと思う→物質が無くなると恐怖する→物質に執着する」唯物論の連鎖反応〉
〈21-4-6 「唯物論の連鎖反応」の泥沼が、戦争、破壊、悟りをもたらす〉
〈21-4-7 「霊的文明」の構築には、「物質・時間有り」とする「唯物論」を打破せよ〉

21-5) 「時間と物質の継続」自体が、「神の無限供給」を証明している
〈21-5-1 「神の無限創造」の事実に目覚めよ〉
〈21-5-2 今、今、今の一瞬新生されている宇宙創造の実相を知る〉
〈21-5-3 「物質が継続的に存在する」との迷いは、「無い過去」と「〝久遠の今〟の忘却」〉
〈21-5-4 物質への執着は、神秘なる神の世界の探求と、新創造を疎かにする〉
〈21-5-5 「神は無限供給の源泉」であり「久遠の今」無限供給を続けておられる〉
〈21-5-6 「時間と物質の継続」自体が、「神の無限供給」を証明している〉

21-6) 神が創造せられたものだけが実在する
〈21-6-1 「真象」と「偽象」〉
〈21-6-2 神の創造を正しく映し出さない「偽象」は必ず自壊自滅崩壊する〉
〈21-6-3 「久遠の吾」は、常住「久遠の今」に生きている〉
〈21-6-4 「久遠の吾」が、心を使って客観世界に投影する〉
〈21-6-5 「現象の吾」は「物質有り」の印象を受けているので「迷い」が生じる〉
〈21-6-6 「現象の吾」にも「神の印象」が刻まれているので「理想」が起こる〉
〈21-6-7 「魂」は無限向上し、「久遠の今」の完全円満を現し出す〉

21-7) 「真象」は消えないが、「偽象」は消える
〈21-7-1 何故「真象」は崩れ去らず、「偽象」は自壊自滅するのか〉
〈21-7-2 「真象」は神が間断なく創造されているので、現れ続ける〉
〈21-7-3 「心のレンズ」に「迷い」が付着している間、「偽象」は現れている〉
〈21-7-4 「迷い」がなくなれば、「偽象」は消える〉
〈21-7-5 「迷い」は必ず自壊するので、「偽象」も必ず消える〉
〈21-7-6 「実相」と「迷い」を峻別する努力で、魂は向上する〉
〈21-7-7 「真象・偽象」を見極めるコツは、「現象否定」と「久遠の今」に精神集中する事〉

21-8) 「久遠の今」を知れば、一切の問題が雲散霧消する
〈21-8-1 物質も時間空間も「霊的実体」を観察する道具であり、存在しない過去〉
 〈21-8-2 「一体なる実体」同士は、「存在」すれども「観察」できない〉
〈21-8-3 「観察する」には、「自他分離」の客観世界に映し出さねばならない〉
〈21-8-4 顔と眼球は一体だから、自分では顔を観察できない〉
〈21-8-5 「鏡」が、客観世界を作り出す「時間空間の原理」の極簡単な縮図〉
〈21-8-6 現象世界(鏡)は「神の映し」であるが「実在ではない」を教える神道〉
〈21-8-7 日本神道では「無い現象(鏡)」の奥の「神の実体」を拝んでいる〉
〈21-8-8 「存在の実体」の過去の映像を、自らが客観的に観察している神のマジック〉
〈21-8-9 「唯物論の泥沼」から逃れる方法は「物質があると見えるマジック」を見破ること〉
〈21-8-10 観察できるものは実在しない過去/実在せるものは観察し得ざるもの〉
〈21-8-11 物質世界は影に過ぎず、神の実在の世界は「内」にのみある〉
〈21-8-12 「物質無し」と「久遠の今」神が一切万物を創造する事実の承認〉

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