26/「現象の迷いの否定」と「実相の肯定」を、どのように整合性を持って両立させればいいのか

26-1) 「相手に現れた〝迷い〟の否定」は「自己の心の中の〝迷い〟の否定」

 「日本の大掃除」が始まっています。その最大のポイントは、前回の投稿『25/反日勢力が安倍首相に反対する真の理由/「日本を取り戻す」事は「生長の家を取り戻す」事』で書いた通り、「反日在日勢力」の日本からの排除であることを指摘しました。生長の家教団の現在の反日問題もやはり同じ事であって、生長の家本部が「反日在日勢力」によって蚕食されていることを指摘しました。

 今回は、谷口雅春先生が説かれた哲理に添って、「現象問題」に対する基本的な姿勢と、「現象の奥に実在する実相」に対する姿勢の、両面についてこの問題を捉えてみたいと思います。

 日本中に蚕食する「反日在日勢力」や、生長の家現総裁、生長の家現執行部を批判することは、「現象問題」に対する対応、即ち「現象処理」と言えます。生長の家の真理を学んでいる方々にとっては、「現象処理」的な対応について違和感をお持ちの方がいらっしゃるものと思います。しかし、「現象は自心の展開」でありますから、「現象の迷い」を批判することは、「自分自身の心の中にあった〝迷い〟」に対する批判に外ならない、ということを理解しておく必要があるのです。

 つまり、「現象に現れた〝迷い〟」を観察する事によって、それらは「自心の展開」であるが故に、知らず知らずの内に「自己の心の中に巣食っていた〝迷い〟」を発見し、それを反省し否定する働きを行っているのです。その「自己の内なる〝迷い〟」を否定する(捨て去る)ことによってのみ、現象世界に「自身の〝迷い〟無き心」が映し出されて、世の中の一切の問題が自然と消え去っていくのです。この解決方法こそが、生長の家ならではの解決であります。


26-2) 「実相」と「現象」の関係性を先ず理解する

 この「現象(相手)に現れた〝迷い〟の否定」と対応するように、もう一つの視点が存在しています。それは「実相を観る」という最も重要な視点です。この二つの視点、「現象(相手)に現れた〝迷い〟の否定」と、「実相の肯定」という二つの視点が大切である事を、生長の家の真理を学んだ生長の家人は既に知っておられます。

 生命の実相哲学は「縦の真理」(唯神実相)と、「横の真理」(三界は唯心の所現)の二つから成り立っています。この両者は切っても切れない関係にあります。即ち、「現象世界の観察」によって「実相」の実在の認識が初めて可能となり、「実相」の実在によって「現象」の存在を保証(担保)されていると言えます。

 現象世界は、実相世界に支えられていると同時に、心を通して観たところの実相世界の映しです。したがって、現象世界の出来事を正確に観察することを通じて、実相世界に迫ることができるのです。まるで、「人間という主体」と、「鏡という客体」のような関係にあると言えます。


26-3) 「迷いの否定」と「相手の実相の肯定」との整合性に悩む生長の家人

 「現象と実相」の関係を知っている生長の家の方達の大きな〝悩み〟は、「現象の迷いに対する否定」と「相手の実相を観る(拝む)」事を、どのように整合性を持って両立せしめるか、という点にあるのだと思います。この問題は、谷口雅春先生の「生命の実相哲学」に触れた生長の家人ならではの、究極の〝課題〟ではないでしょうか。

 相手の「現象の迷い(間違い)」を指摘し、糾弾し、攻撃することは、真理を知らない人であっても普通にし得ることであり、比較的簡単なのですが、一度「生命の実相哲学」に触れると、「相手の〝生命の実相(神性)〟が実在している」ことを知っているが故に、「現象に現れている〝迷い〟」の否定と、「相手の本来の〝実相(神)〟」に対する肯定との間の〝整合性〟を、どのように保つかということに悩むことになるのです。

 そういう意味において、「生命の実相哲学」に触れた方々の〝悩み〟は、極めて高度な〝悩み〟と言えると思います。この「現象の〝迷い〟の否定」と「現象の奥に実在する〝実相〟の肯定」をきちっと整合性をもって理解しておきませんと、「現象の〝迷い〟に対する否定」も「〝実相〟に対する肯定」も、共に中途半端なものとなります。

 その二つの視点「現象の迷いの否定」と「実相の肯定」を、どのように整合性を持って両立させればいいのか、について考えてみたいと思います。


26-4) 「現象の〝迷い〟の否定」と「実相の肯定(相手を愛する)」の両立が求められている

 現象世界は「自心の展開」(自分の心の映し)ですから、「自分の心の中にあるもの」しか現象世界には映し出されません。この事は絶対的な「心の法則」なのです。従って、自分の心の中で「迷い」を容認したり、妥協している限り、幾ら「実相世界」を観ようとしたり、神を拝んだ所で、その行為は「迷い」を容認し「妥協」している分、帳消しとなってしまいます。是非共、「迷い」を打ち消す言動が求められるのです。ですから、先ず「迷い」に対しては「妥協」も「容認」もしてはならないのです。

 では、「迷いを否定する」言動だけで良いのかと言いますと、そういう分けには行かないのです。「迷いを否定する」だけでは、どうしても「相手の人格(神性)」までも否定し勝ちになります。ここが難しいのです。『罪を憎んで人を憎まず』という諺がありますが、これを諭したものと言えるでしょう。

 ではどうすべきでしょうか? 生命の実相哲学によりますと、その答えは「相手の実相を拝む」ことです。「相手の実相(神性)を拝む」ということは、「相手を神(仏)として観る(愛する)」ことです。「相手の実相(生命の本当の姿)」は「神(仏教では仏)」そのものでありますから、「相手の神性(仏性)を礼拝する」事が求められます。

 「実相世界(神の世界)」は「愛(一体)の世界」ですから、相手を「愛する(自他一体として観る)」ことがどうしても求められるのです。キリストの信仰は、「汝の隣人を愛せよ」「汝の敵を愛せよ」であります。生長の家の「大調和の神示」には、「天地一切のものに感謝せよ」とあります。「愛する」も「感謝する」も元は同じです。

 「愛する」とは色々な段階がありますが、「相手を愛する」事の最高の姿は、「相手の実相(神性)を拝む」事に外なりません。相手の実相(神性)を拝み得る心境に達した時、真に「感謝する」ことができ、「愛する」ことができるのです。つまり、「愛する」事も「感謝する」事も「礼拝する」事も、同じ心境と言えます。

 「迷いを否定する」(現象を否定する)事と、「相手の実相を拝む(愛する)」(実相を肯定する)ことが、生長の家人に今求められているのです。この事は谷口雅春先生がお教え下さった最も大切な生長の家の真理の根幹と言えましょう。


26-5) 矛盾を感じる正反対の行為は「心の動揺」をもたらす

 以上の「現象(迷い)の否定」と「実相の肯定」こそが、生長の家の教えの根本であることは、多くの生長の家人の理解されている点でありましょうが、実際問題として、現総裁や生長の家執行部の反日行動に際して、どのような「心の姿勢」で臨むべきか、ということになりますと、人によって微妙な「心の動揺」が現れるのは何故なのでしょうか。

 その「心の動揺」というのは、「現総裁や執行部に対する〝迷い〟の否定(攻撃)」と、「現総裁や執行部に対する〝実相〟の肯定(礼拝)」という、正反対の概念が、自分の心の中で「矛盾」と感じている為に発生しているのです。

 人間は、自分自身の心の中で「矛盾」と感じる二つの行為に対しては、どちらにも積極的に行動できないものです。例えて言えば、「金儲けは罪悪だ」と感じている人が、一方では「金は必要だ」と感じている場合にどうなるかと言いますと、「金儲けは罪悪」だから「金を一切捨ててしまう」ということも徹底できないし、かといって「大金持ち」になることもできずに、どっち付かずの人生を送るようなものです。


      ©2016あまむし

 人間は「思った通りになる」のがこの世界の「心の絶対法則」ですから、その人の潜在意識が信じている通りにしか、その人の周囲の環境は変化しないのです。潜在意識の中で、矛盾と感じる二つの反発する要素が同居している場合には、そのどちらの想念も打ち消し合って、成立しなくなってしまうのです。

 「相手に現れた〝迷い〟が間違いだ」と気付いている人が、一方において「相手の実相は神だから拝まねばならない」ことを知識レベルで知っているとします。その場合、その人は「相手の迷いに対する否定(攻撃)」と「相手の実相の肯定(拝む)」という「表面上の矛盾」に悩み、心の動揺が生じます。その結果、どっち付かずの行為しかできなくなってしまうことになります。

 ではどうすれば、自分の心の中で両者を「矛盾」と感じずに、整合性が保てるのでしょうか。ここのところの自分自身の「心の中の問題」をきちんと解決しておかなければ、何時までたってもこれらの問題は解決がつかずに、自分自身を苦しめることになるのです。その結果として、何時までたっても、自分の周囲の現象世界には、「不完全な姿」が現れることになるのです。


26-6) 整合性の問題解決の二つの視点

 これは、現生長の家総裁や生長の家執行部、日本を蚕食する在日反日勢力の問題に限ったことではありません。一切の問題という問題は、この「現象否定」と「実相肯定」の両者の整合性の問題であると言っても過言ではないのです。

 この問題を解決するためには、次の二つの視点をきちっと把握しておかねばならないのです。

A)「現象世界は自心の展開」(一切者の自覚)に立って、「現象の迷いの否定」と「実相の肯定」を両立させる。

B)「実相の大地に降り立つ」自覚に立って、「現象の迷いの否定」と「実相の肯定」を両立させる。

 以上二つの心境に立つ必要があるのです。前者は「横の真理」から観た解決方法であり、後者は「縦の真理」から観た解決方法と言えます。


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【A)「現象世界は自心の展開」(一切者の自覚)に立って、「現象の迷いの否定」と「実相の肯定」を両立させる】


26-7) 「現象は心の影」と「類を持って集まる法則」を理解する

 この課題を理解する為にはまず、「何故相手の姿がその様な姿となって自分の前に現れたのか」という問題を理解しておかねばなりません。具体的には、「反日在日勢力」であるとか、「現生長の家教団が、反日行動を起こして、日本や生長の家を破壊しようとしている」という「現象の姿」が、何故自分自身の前に現れているか、という問題です。

 その根本的理解の為には、まず「この現象世界は〝自心の展開〟である」という大原則を理解する必要があるのです。この「自心の展開」という意味は、「一切者の自覚」を意味しています。「一切者の自覚」を持つという事は、現象に現れた相手の姿の奥に、「自分自身の心の原因を見つけ出す」ことを意味しています。

 その為には、さらに二つの理解がどうしても求められるのです。まず第一に、「現象は心の影」であることを理解する必要があります。次には「類を持って集まる心の法則」です。この二つが理解できて初めて、「自分の周囲に起っている現象(相手の姿)」が「自心の展開」であることが理解できることになります。つまり「一切者の自覚」が成立するのです。


26-8) 第一に「現象は心の影」を理解する事

1) 「現象(時間空間の世界)は本来無い」
これが生長の家の真理の根本の一つの柱です。

2) では、何故「無い現象世界」がある様に存在しているかということになります。谷口雅春先生は「神の自己実現」「地上天国実現」と説かれています。「現象世界」は「客観世界」であります。「生命(神・主体)」自身が体験的(客観的)に「自己(神)を知る」為に存在する仮相の世界です。神自身(一つにして全ての全ての実在)が体験的(客観的)に、神自身を知るためには、どうしても客観世界である「現象世界」(時間空間の世界)が必要なのです。

3) 「生命(神・主体)」が、「客観世界」に自己を体験(客観化)する為の〝道具〟として、「心」が存在しています。この「心」は「現象を現す心」であるから、雅春先生は「心も無い」として否定しておられます。つまり五蘊(色受想行識)は無いのです。五蘊皆空です。

4) 「心に印象された〝念〟(今の心)」が、「現象世界」(時間空間の世界)に、「念の影」として映し出されることによって、〝物質〟が存在するように感じられます。

5) 物質は時間空間の世界に映し出される「過去」の姿ですから、「物質」も「時間空間の世界」も本来存在していません。(現象無し・物質なし)

6) 以上の通り、「心」も「現象世界」も本来存在しませんが、「心の影」として「現象世界」にそのまま映し出される(客観化される)ことによって、主体(神)が客観的に自己(主体)を観察できることになります。

7) 勿論本来実在している世界は、「生命(神・主体)の世界」のみです。しかし、「主体」そのままでは、「客観的」には体験することはできないのです。そこで、あえて「心の世界」と「時間空間の世界」を創造して、その架空の世界の中に「念」を投影することにより、「主体」を客観的に体験している、ということをせざるを得ないのです。
 以上が、「現象は心の影」の意味です。

 このことをもっと端的に例えれば、「鏡」の例えが最も解り易いでしょう。「自分の顔」を客観的に見たければ、「鏡」が必要です。その「鏡」に映った「自分の顔」は、「鏡」の向こうに見えます。しかし、その「映し」は「自分自身の顔」ではありません。この「自分の顔」が「実相」であり、「鏡」と「鏡に映った顔」が「現象」ということになります。

 「自分の顔」は自分では直接見る事ができません。したがって、人間は「鏡」という道具を発明しました。その「鏡」が「心」という「道具」です。その「心」という「鏡」は、「自分の顔」(実相)を映し出す事ができるのです。「鏡」(心)に映った「自分の顔の映し」(現象)は虚像であって、「自分の顔」(実相)ではありませんが、「自分の顔の映し」として、かなり正確に「自分の顔」を知ることができます。「実相」と「現象」の関係は、この「自分の顔」と、「鏡に映った顔」の関係のようなものと言えます。そして、「鏡」(心)に映し出す、元となるものが「自分の顔」(実相)であり、「鏡」(心)に映し出された「虚像(映し)」が「現象」と言えます。

 では、「鏡に映った顔」が自分の映しとは云え、「自分の顔」そのものかと言うと、決してそうではありません。それは誰でも知っている事です。唯、「鏡に映った顔」を見なければ、「自分の顔」が今どんな状態になっているか、ということが解らないから、「鏡の顔」を見なければならないだけです。即ち、「鏡の顔」(現象)は本来ないのです。本当に存在しているのは「自分の顔」(実相)だけなのです。それが、「実相」と「現象」の関係性と言えます。

 そして、「鏡」(心)は、「自分の顔」(実相)を客観的に知るために、是非共なくてはならない「道具」なのです。「鏡」(心)とそれに映し出された「鏡の映し」(現象)がなければ、「自分の顔」(実相)は認識することが不可能なのです。

 つまり、「現象に映し出された姿」は「自分の心の映し」であることを、完全に理解しておく必要があるということです。これを少しでも否定したり、ウヤムヤにしていると、現象世界に対する理解は不完全にならざるを得なくなります。つまり、現象に起っている全ての問題に対する「的確な対応」ができなくなるのです。


26-9) 「類を持って集まる法則」の理解と「一切者の自覚」

 《個人の潜在意識というものは、その奥底に於いては全人類の潜在意識とつながっており、全人類の潜在意識は宇宙意識につながっており、宇宙意識はその印象を受けた想念の形に一切のものを現象化してあらわす創化作用を営むものである》(谷口雅春著「真理第十巻実相篇」より)

 このように「現象世界」は全ての人々の心の影である事が分ります。しかし、それだけでは「現象世界」が「自心の展開」であるという説明にはなりません。自分の周囲に映し出される「現象世界」が、「自心の展開」であることを説明するには、もう一つの「法則」を理解しなければなりません。それが「類を持って集まる法則」です。

 「現象は心の影」であると同時に、「類を持って集まる法則」によって、「自分の心」にふさわしい「同類の心の波動」を映し出した「現象世界」が、自分の周囲に集まって来ることになります。つまり、自分の周囲に現れた「現象」は、「相手の心の影」であると同時に、「自分自身の心の影を反映している」と言い得るのです。

 つまり、自分が認識し得る「一切の問題」は、「自分自身の心の影」だということです。これが「一切者の自覚」を「心の法則」から観察した時の意味です。「自分自身の心の中に把持していない〝概念〟は、自分の周囲の「現象世界」には映し出されることはないのです。

 もし、この「現象世界の仕組み」が納得出来ずに否定する人は、「現象世界に発生している問題」に対して、「自分自身の責任」を感じないことになります。それ故、その責任を「他者に転嫁」することになるでしょう。その場合、「他者の責任で現象世界に不如意な姿が映し出された」という「新想像」を自ら創り出すことになります。つまり、「自分自身は他人の〝被害者〟である」という新創造をしたことを意味しています。

 その「新想像」の結果は、「近未来の現象世界」に、「他者の責任によって自分にとって不如意な世界を造り出す」という姿が映し出されます。そのようにして、「自分の意志では現象世界を造り出すことは〝不可能〟である」という妄想がさらに固まっていくことになるのです。これが「自縄自縛」であり、「神の子の無限力を縛る」結果となります。

 即ち、「他人のせい(責任)」にする「想念」は、「一切者の自覚」(神の子の自覚)を大きく逸脱する行為です。

 人間は本来「神」でありますから、どんな「想念」を選択しようが、その人の自由であります。しかし、その人の選択した「一瞬の想念」も無視されることなく、「現象世界」に反映されるのです。その人が、「他人のせい(責任)」という「想念」を選択した場合は、その人の周囲には「他人のせい(責任)」という現象世界(環境)が映し出されることになるでしょう。

 もし、その人が、「全ては自己の責任」という「想念」を選択した場合は、その人の周囲には「自分の責任で世界が作られる」という信念に基づいて、「その人の信じた世界が映し出される」ことになるでしょう。

 そのどちらを選択するかは、全て本人の自由選択に委ねられているのです。神は、「人間の自由選択」に対して、注文をつけることは一切せずに、「人間が想念した〝注文〟」をその通りに、「現象世界」に忠実に映し出す働きを延々と果たしておられるのです。


26-10) 「一切者の自覚」の意味するもの
 
 以上が、「一切者の自覚」を心の法則の側面から観察したものです。「一切者の自覚」が成立するということは、何を意味するかといいますと、全ての周囲に現れる事象は、一切自分自身の責任下にあるということを意味します。

 即ち、生長の家現総裁や生長の家執行部の「迷いの現れ」は、「自分自身の責任である」ことを意味しているのです。この時、生長の家現総裁や執行部の「迷いを糾弾する」という事は、取りも直さず、「自分自身の心の迷い」に真因があったということなのです。

 つまり、生長の家現総裁や執行部の責任追及や批判という行為は、そのまま自分自身の心の奥に隠されていた〝迷い〟に対する責任追及であり、批判を意味しているということになるのです。

 「現象の迷いを否定する」という行為は、現象に映し出された「自分の心の迷いを否定する」ということなのです。そのことを無視して、唯単に現象に映し出された相手の姿を批判し責任追及している限りにおいては、真因の自分自身の潜在意識に隠されていた「迷い」の払拭ができないことになってしまいます。それでは、せっかく自分の潜在意識の〝迷い〟を映し出し、自分の魂の向上のために現れた観世音菩薩としての相手の存在意義を、十分に活用できていないことになってしまうのです。現象に映し出された姿を自己の心の「教訓」として受け止めない限り、「魂の成長(実相の顕現)」は遠退くでしょう。

 「心の法則」(「現象は心の影」と「類を持って集まる法則」)に基づく「一切者の自覚」から観察するとき、自ずと「現象の迷いの否定」は、「自分自身の心の迷いの否定」となります。「自分自身の心の迷いを払拭する」ことによって、初めて「自分の奥底の実相生命(神)の現れ」、即ち「実相(神)の肯定」になるのです。

 もう一度整理しますと、「現象(相手)の迷いの否定」は、「自分自身の心の迷いの否定」となり、「迷いの否定によって、実相が顕現する」のであるから、自ずと「実相の肯定(顕現)」が出来ることになります。

 その為には、どうしても「一切の現象は吾が心の影」である事を是認しなければならないのです。「全てが自分の責任」(一切者の自覚)が成立した時に、「現象の迷いの否定」と「実相の肯定」が矛盾無く成立することになるのです。

 もし、「一切者の自覚」を無視して、現象に起っている事は「他者のせい(責任)」であると認めている場合は、「現象の迷いの否定」と「実相の肯定」の整合性は取れなくなります。そして、「他者の責任で現象の不完全が現れている」という〝妄想〟が心の因となって、その本人の周囲にさらに「不完全、不調和と見える世界」が映し出されることになって、収拾がつかなくなるのです。

 以上が、「現象世界は自心の展開」(一切者の自覚)である横の真理、「心の法則」から観察した時の、「現象の迷いの否定」と「実相の肯定」の意味であります。


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【B)「実相の大地に降り立つ」心境で、「現象の迷いの否定」と「実相の肯定」を両立させる】


26-11) 「現象否定」と「実相肯定」の矛盾を解決する究極の方法

 次に、縦の真理から見た時の「現象の迷いの否定」と「実相の肯定」の整合性について、考えてみたいと思います。前述したA)の視点は、現象世界を正しく観察することによる方法でしたが、このB)の視点は、現象からの観察ではなく、実相世界から直接把握する「究極の方法」です。

 その「究極の方法」とは、「実相の大地に降り立つ」ということです。『生命の實相』20巻「自伝篇」にて、谷口雅春先生のお悟りのくだりがありますので、一行のみ引用させて頂きます。《「心もない!」という宣言によって、わたしは、その「心」の桿馬から実相の大地に降りたのであった。》(『生命の實相』20巻135頁より引用)
 谷口雅春先生は、「実相の大地に降り立つ」ことによって、如意自在、融通無礙を獲得されたのです。

 ここで「実相の大地に降り立つ」ことが、何故「現象の迷いの否定」と「実相の肯定」の矛盾なき両立を意味するかについて説明いたします。

 「心がある」「現象がある」と引っかかっておりますと、「現象の迷いをなんとかしよう」「現象の原因となっている〝心〟をなんとかしよう」と悪戦苦闘する結果を生みます。谷口雅春先生も、「現象なし(五蘊皆空)」は悟られていましたが、現象を生み出している「心」を如何にコントロールすべきかということを悩まれていたのです。

 「現象の迷いの否定(批判)」という観念は、「心の法則」を理解している人にとっては、「心の迷いに対する批判」を意味することになります。「心が現象を現す」ことを理解していると、「現象の迷い」の原因は「心」にあるのですから、「心の迷い」をどのようにして解決すべきか、という視点に変化します。

 しかし、「心の迷いをコントロールする」ことは極めて難しい問題なのです。はっきり申しまして、それは「不可能」なことです。何故なら、「心は本来無い」からです。「無い物をコントロールする」こと自体が不可能なのです。「現象がある」「心がある」と漠然と認めている限り、「本来無いものを〝有る〟」と考えている「矛盾」に、人々は苦しめられる事になります。

 そこで、谷口雅春先生は、「心も無い」という一言で、その「心(現象)の世界」を超越されました。「現象は心の影」です。つまり、「現象」と「心」というものは、「合わせ鏡」のように常に対になっているものなのです。その「現象(結果)」「心(原因)」の両方を一刀両断、断ち切ってしまわれたところに、谷口雅春先生の偉大さがあるのです。

 《「実相とは神である。あるものはただ神のみである。神の心と、神の心の顕現のみである。これが実相だ」ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。》(『生命の實相』20巻136頁より抜粋)

 「実在するのは〝実相〟のみである」これが、〝唯神実相哲学〟です。すなわち、〝唯神実相哲学〟においては、「現象を現す心」も「現れた現象」も、断固断ち切っているのです。そこに〝生命の実相哲学〟の真骨頂があります。ここを外す時、生長の家の真理に似ているようでいて、本質的に違う宗教哲学と成り下がってしまうことを、覚悟しなければならないのです。


26-12) 「実相の大地に降り立つ」心境にあって生きる

 この「実相の大地に降り立つ」という立ち位置で、一切の言動を発する(生きる)所に、生長の家の生き方があると言えるのです。この時、「実相(神)が生きている」のであり、「実相(神)が為している」ことになるのです。

 これが、神想観における「招神歌」の「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる御祖のいのち」「吾が業は吾が為すに非ず、天地を貫きて生くる御祖の力」という境地となります。神想観の境地こそが、生長の家の生き方の真髄と言えます。

 この生長の家の真髄である「実相の大地に降り立つ」境地にあって、「現象の迷いを否定」し、「実相を肯定」することが求められているのです。「現象の迷いの否定」「実相の肯定」と言葉では申しましても、その人その人の心境が、「実相の大地に降り立つ」心境で語っている場合と、そうでない心境で語っている場合では、雲泥の差が生じるということなのです。

 つまり、一人一人が「実相の大地に降り立つ」心境にあって、生きる(言動を発する)事こそが、唯一最大のポイントであると言わざるをえないのです。


26-13) 「実相の大地に降り立つ」と「現象の迷いの否定(雲散霧消)」も「実相の肯定(顕現)」も自ずから成就する

 その「実相の大地に降り立つ」心境にて、「相手の現象の迷いを否定(攻撃)」すれば、「相手の実相が現れる」ことになるのです。なぜならば、その人の心境が、「実相の大地に降り立つ」境地で、心が働いているが故に、その「実相の大地に立った心の波動」がそのまま現象世界に反映されることになるからであります。

 その「実相の大地に立った心の波動の反映」として、その人の周囲の現象世界には、「実相世界の反映」が映し出されることになるのです。それがそのまま「現象の迷いの否定」を意味しています。というよりは、忽然と「現象の迷いが消える」のです。

 「実相の大地に降り立つ」心境で生きるとは、「神を生きる」ことに他なりません。《神があらわるれば乃ち 善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし。》(『甘露の法雨』より)と書かれている通り、「神を生きる」「神を体現する」限りにおいて、神の世界に「迷いは無い」のでありますから、「現象の迷いは消え」「実相がそのまま顕現する」ことになります。即ち、「現象の迷いの否定(雲散霧消)」も「実相の肯定(顕現)」も、自ずから成就しているのです。


26-14) 形の世界を捨て去った時、「実相の大地に降り立つ」ことができる

 今回のテーマである現総裁や生長の家執行部や、日本を貶める反日在日勢力に対する「現象の迷いの否定」の言動と、「現象の奥に実在する実相の肯定」という、一見矛盾せる行為の整合性を如何に持つかという課題を考えて来ましたが、「現象の迷いの否定」も「実相の肯定」も形の問題ではないということなのです。

 「実相(内なる神)から自ずと現れる言動」であることが、唯一の正解なのです。その結果として、自然と「現象の迷いの否定」となり、「実相の肯定」の言動となるのであります。その人自身が「実相の大地に降り立つ」心境に達していない場合は、形の世界の真似として「現象の迷いの否定」や「実相の肯定」という言動から入って行くのでありますが、その場合には、「違和感」や「ギャップ」を感じたり、「現象の迷いの否定」も「実相の肯定」も中途半端になり勝ちです。

 しかしながら、形の世界の真似から入る「現象の迷いの否定」や「実相の肯定」の言動を、否定しているのではありません。形の世界から入ることによって、「実相の大地に降り立つ」道に必ず繋がるからです。一時的に違和感を感じるかもしれませんが、「言葉の力」によって、「実相を呼び起こす」機縁となり、「実相の大地に降り立つ」こととなり得るからです。

 全ての出来事は、結局は「実相の大地に降り立つ」道に繋がっているのが、この世界の宿命だからです。なぜなら、この世界は「神の自己実現」の世界であり、「神が体験的に自己を知るため」の世界であるからです。

 かといって、形の世界から入るやり方に固執して、満足すべきでもありません。形の世界から入りつつも、形の世界を捨て去ることが求められます。「現象世界を否定」し「心も否定」して、形の世界を捨て去った時、「実相の大地に降り立つ」ことができるのです。

 全ての人々も「神の自己顕現」でありますから、谷口雅春先生の示された「悟りの道」と同様に、「現象否定」と「心(五蘊)の否定」を通して、「実相の大地に降り立つ」道を進むことになります。


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26-15) 断固とした「現象の迷いの否定」と「実相の肯定」の成就

 以上の通り、『A)「現象世界は自心の展開」(一切者の自覚)に立って、「現象の迷いの否定」と「実相の肯定」を両立させる。』方法と、『B)「実相の大地に降り立つ」心境で、「現象の迷いの否定」と「実相の肯定」を両立させる。』方法について説明いたしました。

 前者A)の手法は、現象世界に現れた出来事の一切は、「自心の展開」であるという「一切者の自覚」から発したものであり、後者B)の手法は、「実相の大地に降り立つ」心境から発したものです。前者は「横の真理」から見た時の解決方法であり、後者は「縦の真理」から見た時の解決方法と言えます。

 「横の真理」(心の法則)から見た場合と、「縦の真理」(実相独在)から見た場合との違いはありますが、よくよく考えてみますと、同じ心境「一切者の自覚」即ち「神一元の世界観」から発したものと言えましょう。「吾は神である」、「一切は神(吾が内なる神)から発したものである」、との自覚において共通しているのです。

 「一切者の自覚」と「実相の大地に降り立つ」心境で物事に対処する時、断固とした「現象の迷いの否定」が成就すると同時に、「実相の肯定」(相手の神性の礼拝)も同時に矛盾無く成就できるのです。そして縦横無尽に問題を解決し、自身の進む所自ずから迷いと抵抗は消滅し、「進む所敵無し」の大調和の世界が幻出するに至るのです。


26-16) 一切の問題解決の原点は「唯神一元論」

 以上の通り、谷口雅春先生の説かれた「唯神実相哲学」(唯神一元論)に立った時、現象の側から観た観察や行動も、実相の側から見た観察や行動も共に、同じ結果が導き出されることとなるのです。

 当初のテーマであった「現象の迷いの否定」と「実相の肯定」という問題も、「横の真理」(心の法則)、「縦の真理」(実相独在)と二つ観方があるように見えますが、究極の問題として「一元論」か「二元論」かの問題に帰着するのではないでしょうか。

 「唯神実相論」(唯神一元論)の立場でこの宇宙一切を観ている場合には、「心の法則」側から見ても、「実相の大地」から観ても少しも矛盾が起きないのです。

 それに対して「心物二元論」「唯物二元論」、もしくは「神心物二(三)元論」で観ている場合には、「心の法則」側から見ても、「実相(神)」側から観ても、「実相(神)」と「心」と「物(現象)」との整合性は取れなくなってしまうのです。

 今回のテーマを通して改めて理解できることは、一切の根源の問題は「唯神一元論で宇宙を観るか」、「二元論で宇宙を見るか」という点に尽きると言えましょう。即ち全ての問題解決のポイントは、「二元論」から「一元論」に帰ることにあるということです。「一元論」とは「唯神一元論」です。「神のみ実在する」「神が今此処に生きている」「実相(神)独在」の一点に帰着せねばならないのです。


26-17) 「唯神一元論」の象徴的存在は「日本」

 この事が理解できますと、日本の国家の成り立ちを示している「古事記」の神話の尊さが見えて来ます。「古事記」の思想(哲学)は、「唯神一元論」である所に最大の特徴があると言い得るのです。《天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原に成ませる神の名は、天之御中主神》と古事記の冒頭にありますように、天之御中主神から一切の神々、万物が生れ出たというのが、「古事記」の神話の意味するところです。

 天地自然も人間も一切生物も悉くが、「神」から生まれた「神」だということです。勿論日本国家も「神」の顕現なのです。誠に見事なまでに「唯神一元論」で成り立っているのが、「古事記」の神話であり、「日本国家」であるのです。

 この「唯神一元論」の宇宙観、世界観であればこそ、一切の問題は矛盾無く、整合性を持って解決することができるのです。それに対して西欧の文化の基本にあるのは、キリスト教文化、ユダヤ教文化であります。イスラム教文化を含めてこれら3つの宗教文化の根底にあるのは、「ユダヤ教」の「旧約聖書」です。

 この「旧約聖書」に流れている思想哲学は、「二元論」と言えます。この文化圏から発した思想の中で最もその特徴を現しているのが、「マルクス主義」(唯物思想、二元論)です。「マルクス主義」は世界を混乱に陥れるものでしかないことは、この100年間の歴史が証明しました。そして、西欧文明は解決できない矛盾を無数に抱え、今破局を迎えようとしています。

 昨今世界から日本が注目されています。世界の様々な問題の解決の鍵を握っているが「日本」なのです。その根底にある思想哲学が「唯神一元論」であることを、世界中の人々が知る日が近づいているのです。


26-18) 「唯神実相哲学」を学んだ生長の家人の日本と世界に対する〝使命〟

 この「日本」の偉大さを哲学的に理論立てられたのが、谷口雅春先生であり、「唯神実相哲学」です。世界はこの「唯神実相哲学」(唯神一元論)を切に求めているということなのです。そしてその「唯神一元論」の具体的証明として「日本」が存在していると言えるのです。

 約2700年続いた「日本国家」「日本民族」の存在自体が、「唯神一元論」(唯神実相論)の正しさを証明していればこそ、「二元論」で苦しむ世界中の人々が、一切の諸問題を縦横無尽に解決し得る「鍵」を、今「日本」に求め始めているのです。「日本」という「唯神一元論」の神話国家に生まれ育った吾々日本民族は、全世界の人々にその究極の理念「唯神一元論」を提供する使命があるのです。

 そして、その「日本」の真髄「唯神一元論」を正しく理解できるのは、谷口雅春先生の「唯神実相哲学」を学んだ吾々生長の家人をおいて他にいない事を知らねばなりません。その意味において、「唯神実相哲学」を学んだ吾々生長の家人の、日本と世界に対する〝使命〟は、誠に偉大であると言わざるを得ないのであります。


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