31/《『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者》の境地

谷口雅宣氏の『〝個人の救い〟は自然との調和の中に』を考察する-1

31-1) 谷口雅宣氏の「環境問題」の土台は「唯物論」である

 生長の家は、「現象と物質が非実在である事を解き明かし、生命の実相を明らかにすることによって、全ての問題を解決する」ところに、本質的意義があります。ところが、現総裁の谷口雅宣氏は、「環境問題」を盛んに説いています。一般の方々からすると、「環境問題を説く事は別に間違ってはいない」と思う方も多いと思います。ところが、生長の家の「生命の実相哲学」から見た場合、「環境問題を説く」事は、必ずしも正しいとは言い切れませんし、却って「生命の実相」の悟りから遠ざかることにもなってしまいます。このことをいい加減にしておく事は、生長の家の真理を真剣に学ぶ信徒にとって、重大な欠陥であると考えられますので、ここで何回かに分けて考察したいと思います。

 結論から申しますと、谷口雅宣氏の称える「環境問題」の思想の土台となっているものは、「物質本来無し」を悟るまでの一過程、もしくは「唯物論(物質有りの思想)」が根底にあるのです。そのことをなるべく分り易く、論理的に解説したいと思います。その為に、丁度最近谷口雅宣氏が発表した、『〝個人の救い〟は自然との調和の中に』という論文に基づいて、逐次考察を進めていきます。この論文は、「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」における氏の挨拶を元にして、「生長の家総裁ブログ」の2017年11月22日版に発表されたものです。


31-2) 「物質主義的繁栄を求めるだけでは人間は決して幸福になれない」とは「物質無し」の悟り以前の思想

 《今年の雅春大聖師の三十二年祭では、私は雅春先生がご生前、物質主義的繁栄を求めるだけでは人間は決して幸福になれない、と説き続けれらたことをお話ししました。それは人にそう説かれたというだけでなく、ご自身の生活においても、贅沢や無駄遣いを決してされない質素なライフスタイルを貫徹された・・・》(谷口雅宣著「生長の家総裁ブログ」『〝個人の救い〟は自然との調和の中に』より)

 《雅春先生がご生前、物質主義的繁栄を求めるだけでは人間は決して幸福になれない、と説き続けられた》とありますが、谷口雅春先生の「生命の実相哲学」の根本は、「実相独在」「現象無し」「物質無し」でありますので、「実相世界においては、無限に豊かにして大調和の世界が、既に実在しているのであり、その実相世界を人間が心で認めれば(悟れば)、その心の影として現象世界に、自ずから物質的豊かさも大調和も忽然として現れる」という真理を教えられたのであります。決して、谷口雅宣氏が主張する様に、谷口雅春先生は《物質主義的繁栄を求めるだけでは人間は決して幸福になれない》という様な思想を説かれたのではありません。

 《物質主義的繁栄を求めるだけでは人間は決して幸福になれない》という谷口雅宣氏の解釈は、「物質無し」の悟りに到る為の一つの道ではありますが、「物質無し」「現象無し」「実相独在」の境地に到達された谷口雅春先生の説かれた「生長の家の実相哲学」においては、《物質主義的繁栄を求めるだけでは人間は決して幸福になれない》というような、小乗仏教的説き方をなさったわけではありません。


31-3) 「物質本来無し」の真理を悟るまでの、過渡的段階の思想

 その補足説明をしてみたいと思います。〝神〟が谷口雅春先生を通して天降したとされている『霊魂進化の神示』に、次の様な記述があります。《霊魂進化の過程を短縮するのは、念の浄化による。念の浄化には、実相を悟ることが第一であり、物質欲に捉われざることが第二である。物質欲に捉われざるためには、『物質本来無し』の真理を悟るが第一である。『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者には、物質の快に捉われざるための修行として、自ら進んで苦を求めて喜ぶか、物質に快を求めて却って苦を得る体験を通じて、ついに物質欲に捉われざるに到るかの二途しかない。前者は自ら進んで嘗める苦行であり、後者は幸福を求むれども求むれども運命的に他動的にやってくる苦難である。》(谷口雅春著『霊魂進化の神示』より)

 ここに《『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者には、物質の快に捉われざるための修行として、自ら進んで苦を求めて喜ぶか、物質に快を求めて却って苦を得る体験を通じて、ついに物質欲に捉われざるに到るかの二途しかない。》と、示されています通り、《物質主義的繁栄を求めるだけでは人間は決して幸福になれない》という思想は、「物質本来無し」の真理を悟るまでの、過渡的段階の思想であると考えられます。


31-4) 「実相」を悟ると「物質主義的繁栄を求める」概念自体超越する

 「本来物質は無い」のでありますから、「物質無し」「現象無し」「実相独在」を真に悟った境地においては、「物質主義的繁栄を求める」という発想が生じること自体、あり得ないことなのです。「実相完全円満大調和」を悟った者にとっては、「物質主義的繁栄を求める」等と言う概念自体、最早超越しているのです。何故なら、「既に完全円満大調和の世界が実相世界に実在している」ことを知っており、そしてそれを知る(悟る)者は、自ずと大調和にして豊かな世界が展開せざるを得ないからであります。その豊かさは、自ずと物質的豊かさとしても現れるのです。しかし、いくら物質的豊かさが環境に現れても、「物質無し」「現象無し」を知る者にとっては、映し出された「現象世界の物質」に心が囚われる事は決してないのです。故に、「物質主義的繁栄を求める」等と言う発想自体が生じて来ないのです。

 すなわち谷口雅宣氏が、《雅春先生がご生前、物質主義的繁栄を求めるだけでは人間は決して幸福になれない、と説き続けられた》と見ているという事は、実はそう思っている谷口雅宣氏自身が、《『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者には、物質の快に捉われざるための修行として、自ら進んで苦を求めて喜ぶ》境地であることを、そのまま証明していることになるのです。


31-5) 実相を悟られた雅春先生であればこそ、無数の人々が参集した

 谷口雅春先生の説法は、「実相独在」「物質無し」「現象無し」の境地にて、獅子吼されたものであります。その説法は、釈迦、キリストをも彷彿とするものであったのです。谷口雅宣氏が勝手に妄想する様な、《『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者》の境地による説法では断じてなかったのであり、そのことは生長の家に触れた人々は、よく御存知の筈であります。そこに絶大なる魅力を感じればこそ、無数の人々が谷口雅春先生の元に参集したのではありませんか。

 谷口雅宣氏が説く様な、《物質主義的繁栄を求めるだけでは人間は決して幸福になれない》等と言う「唯物的」説教であれば、人々がその魅力に引かれて参集する事は、なかった筈であります。現在の谷口雅宣氏の講話には、「生命の実相」の深遠な真理が説かれていません。その証拠に、過去に谷口雅春先生の魅力に引かれて集まって来た信徒誌友が、年々生長の家から離れつつあるではありませんか。真理の魅力のない所に、人々は集まりません。


31-6) 『物質本来無し』の真理を悟らぬ段階の説教は、生長の家では不適切

 この一点から見ても、谷口雅宣氏の尊師に対する理解は、まだまだ浅いと言わざるを得ないのではないでしょうか。《『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者》による宗教説法は、古来から無数に巷に存在していたのであります。これを仏教では「小乗」と呼び、「物質無し」を悟る為の一時的方便として、人里離れて山に籠って、難行苦行の修行を喜びとしていたのであります。

 それはそれで意味のあることであり、魂の発達段階の一つの過程として必要と言えるでしょう。したがって、《『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者》にとっては、その段階にて修行することは大いに結構なことであります。しかしながらここでの問題は、それに対する批判ではなく、住吉大神の導きに従って、谷口雅春先生が始められた「生長の家」教団にて、その様な境地の説教が適切かどうかの問題なのであります。

 谷口雅春先生によって、既に「生命の実相哲学」が完成し、「実相独在」「物質無し」「現象無し」の大真理に到達している「生長の家」において、生長の家総裁ともあろう立場の人物が、《『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者には、物質の快に捉われざるための修行として、自ら進んで苦を求めて喜ぶ》境地の説教を、信徒にすることは、相応しくないのです。


31-7) 究極の真理「生命の実相」を説くのが「生長の家」の使命

 その様な説教であれば、古来から巷に掃いて捨てるほどありますから、わざわざ「生長の家」が説くには及びません。そのような説教と修行では、究極の真理に到達し得ぬが故に、人類の本質的な問題解決に到らなかったのです。その奥に隠されている究極の「生命の実相」の真理を説くため、「生長の家」が出現したことを、谷口雅宣氏は御存知ないようです。

 もし谷口雅宣氏個人として、どうしてもその様な境地の説教をしたいのであれば、個人として為すべきであり、「生長の家」の総裁として為すべき使命ではありません。それを「生長の家」内部でごり押しする事は、「生長の家」を始められた〝神〟と谷口雅春先生に対する背任行為であり、生長の家信徒に対する背信行為であります。それは、まことに失礼な話であって「天に唾を吐く」行為であります。

 究極の真理「生命の実相」を説かないのであれば、「生長の家総裁」の肩書きは外さねばなりません。それは生長の家総裁だけの問題ではなく、生長の家本部理事、生長の家教化部長、生長の家本部講師、生長の家地方講師全員が肝に銘じるべき根本的問題であるのです。何故ならば、「生長の家」は究極の「生命の実相」の真理を説く使命があるからなのであります。

   (平成29年12月7日 © あまむし庵)

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