17/聖なる道具「聖経」を誦(よ)むと、観世音菩薩の波動が鳴り響く

 今この世界は混沌としています。現象界は霊界の映しですから、霊界(念の世界)はさらに混沌としていると思われます。その念の世界の浄化は喫緊(きっきん)の課題と言えましょう。生長の家の聖経『甘露の法雨』は、観世音菩薩が「霊の戦士達」に授けた「聖なる武器」とも言えるものだと、小生は思っています。一回でも多く、この聖経を読誦させて頂きたいものと思います。


17-1) 「聖経」を誦(よ)むと天地一切が浄化する
17-2) 「真の姿(実相)を実相眼で観(み)続けよ」との神からの絶対指令
17-3) 聖経読誦する時の誦み手の心構え
17-4) 神様に対する〝横領罪〟
17-5) 一切を神にお還しし、お任せし、完璧な守護と導きに感謝する生活 

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17-1) 「聖経」を誦(よ)むと天地一切が浄化する

〈17-1-1 自分は悟っていなくとも、聖経を誦むだけで先祖が悟られる〉
 いよいよ日本のお盆と終戦記念日がやって来ます。終戦記念日には約310万人の戦没者に対して、聖経『甘露の法雨』を読誦させて頂きたいと思っております。生長の家の信徒の皆様は、毎日仏壇、神棚で聖経『甘露の法雨』を誦(あ)げておられると思いますが、お盆の時期は、より多くのお聖経が誦げられることでしょう。生長の家には、極めて素晴らしい真理が、分かり易い言葉で書かれている聖経がありますので、実に有難いのであります。自分自身では真理をよく悟っていなくとも、聖経『甘露の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』を誦(よ)ませて頂くだけで、自分自身の真理が深まると共に浄化され、同時に御先祖様もお悟りになられるのでありますから、なんとも有難いことであります。

注)「念の浄化」「霊界の浄化」・・・・真理の言葉の波動を鳴り響かせることが「浄化」です。神が現れると「浄化」になります。「神があらわるれば乃ち 善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし」と聖経『甘露の法雨』に書かれている通りであります。

〈17-1-2 生長の家の聖経は観世音菩薩の波動であるから浄化される〉
 生長の家の聖経『甘露の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』は、観世音菩薩が谷口雅春先生を通して、地上に天降し給うたお経でありますから、聖経には、観世音菩薩の波動がそのまま印象せられているのであります。その聖経を読誦いたしますと、観世音菩薩の波動を起こすことになりますから、吾々の心の意識が浄化され、同時に霊界の諸霊にしても、現象界の人間にしても、そのお経のリズムを聴く者の意識が浄化せられるのであります。それは人間に限ったことではなく、一切万物は観世音菩薩の所現でありますから、一切万物が浄化せられることになるのであります。実に不思議なお経と言えるのであります。

〈17-1-3 『甘露の法雨』を持って反乱青年将校を鎮めた田中静壹大将〉
 谷口雅春先生は、《聖経『甘露の法雨』は小さくは個人の病を癒し、大きくは国家自体をも救済するものです》と説かれています。終戦時、一人『甘露の法雨』を持って反乱青年将校を鎮(しず)めた、田中静壹(しずいち)大将の偉勲(いくん)は有名であります。生長の家の方はほとんど御存知でしょうから、ここでは詳しくは書きませんが、ネットで調べていただけば色々と出て来ると思います。日本危急の時、必ず塩椎の大神(生長の家大神)が現れて、日本は護られるのであります。生長の家の使命は、そういう処にもあるのであります。

〈17-1-4 米国ハワイの日系移民部隊の活躍と日本無償援助〉
 第二次世界大戦時、ヨーロッパ戦線の硬直状態を打破したのは、米国ハワイの日系移民部隊であった事も、非常に有名な事実であります。その日系移民部隊全員に、英語に翻訳した『甘露の法雨』をお守りとして持たせ、シシリー島上陸時、さらに数々の激戦地に於いて、奇蹟的功績を上げたのであります。その日系移民部隊の活躍が米国内で認められ、結果的に戦後、日本に対する食料無償援助、経済援助が行われたと言われています。

〈17-1-5 國体護持、地上天国実現を願って聖経を誦むことは極めて重要〉
 このような素晴らしい功徳のある聖経は、「聖なる道具」と言えるのです。その聖経を日々御先祖に、森羅万象に読誦することは、極めて重要で素晴らしい事であります。現在の生長の家を取り巻く情勢、日本国内の情勢、その日本を取り巻く世界の情勢、どれ一つとっても重大な危機が迫っております。(この事につきましては、後日当ブログでも書きたいと思っております。)この危機に際して、國体護持、地上天国実現を願って、「聖なる道具」聖経を誦むことは、極めて重要なことであると言えます。

〈17-1-6 現象世界を整えるには、先ず霊界を浄めるべし〉
 「霊界の映しが現象世界」であります。心の世界が直接的に現れているのが、「霊界」でありますから、心の世界で蓄積されたものが、先ず「霊界」に投影され、さらに「三次元時空間の現象世界」に映し出されることになるのであります。「三次元時空間の現象世界」を整える為には、先ず心(念)の世界、即ち「霊界」を整えるしか方法はないのであります。「霊界」を整えるとは、「念を浄化」する以外には無いのです。

〈17-1-7 観世音菩薩が「霊の戦士達」に授けた「聖なる武器」〉
 「念を浄化する」には、「迷い」に対して、「実相の言葉」を響き亘らせる以外に方法はないのです。すなわち、本当にある処の「実相世界」のリズムである聖経『甘露の法雨』を読誦するのが、最も手っ取り早く有効だと言えるのです。つまり聖経は、観世音菩薩が「霊の戦士達」に授けた「聖なる武器」とも言えるものなのです。

〈17-1-8 霊界の諸霊は「物質無し」の真理を悟り易い〉
 「三次元時空間」即ち「物質世界」に、肉体を持ちながら生きている吾々人間は、どうしても「肉体が存在している」と思い違いし勝ちです。それ故に、なかなか「物質無し」「現象無し」という真理を肯定する事が出来にくいのであります。しかし、霊界の霊人達は、「肉体を持っていない」のでありますから、「物質無し」「現象無し」の真理を比較的理会しやすいメリットがあるのです。そこで、こちら側から、聖経『甘露の法雨』等の真理の言葉を読誦(供養)すれば、霊人達はその真理を聞いて、速やかに悟りを開いて下さる事になるのです。

〈17-1-9 霊界の諸霊が真理を悟ると霊界が浄まり、人間の悟りが早まる〉
 霊界の諸霊が、そうやって「物質無し」「現象無し」「実相独在」の真理を自覚して下さると、速やかに霊界(念の世界)が浄まるのであります。そうすると、霊界からの「悟りの念」を受けて、こちら側にいる吾々人間も、速やかに「悟り」を深めることが出来る様になるのであります。霊界と物質世界の吾々との両方の念が浄まれば、地上天国が実現することになるのです。

〈17-1-10 誰にも知られない聖経読誦は、御心に適った偉大な行為〉
 そのように、実に素晴らしい聖経読誦の功徳がありますので、吾々は一回でも多く、聖経『甘露の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』を、仏前で、神前で、神社で、大宇宙に対して誦(よ)みたいものであります。今でも聖経千巻読誦をしておられる、熱心な生長の家人も多数おられると思いますが、それは、誰にも知られない行為でありますが故に、却って、神の御心に適った偉大な行為であると思うのであります。


17-2) 「真の姿(実相)を実相眼で観(み)続けよ」との神からの絶対指令

〈17-2-1 宇宙に遍満せる観世音菩薩が、聖経を鳴り響かせている〉
 前回のブログで、「実相の自分が、相手の実相を拝む」という気付きがあったと書きましたので、聖経を誦む時にも「実相の自分が聖経を誦む」ということを意識しておりました。そのような意識で誦んでおりますと、「肉体の自分が、聖経の真理の言葉を誦んでいる」という感覚でなく、「自分の実相である観世音菩薩様が、聖経の真理の言葉を鳴り響かせておられる」という、荘厳な感覚になったのです。これは謂わば、神想観実修で味わう処の、「神我一体感」であり、「吾と神との置き換え」に当る感覚だと思います。

〈17-2-2 相手の現象の姿がユラユラと消え去って「光」のイメージに〉
 しばらくすると、今度は、聖経を読む対象である相手の実相に焦点が移って行き、相手の実相も観世音菩薩そのものであった、という感覚になっていきました。それまでの自分は相手を見るに、現象に現れた「肉体人間の姿」をもって、「その人である」と漠然と認識していたのです。ところが、今回の聖経読誦に於いては、「相手の現象(肉体人間)の姿」に対して、どうも強い違和感を感じている自分がおったのです。すると、相手の現象の姿がユラユラと消え去って、「光(生命)」のイメージが現れ、これこそがその人の本質であった、と感じられるようになりました。

〈17-2-3 神は人間の光源にして人間は神より出でたる光なり〉
 ちょうど「人間」の項にある《神は人間の光源(ひかりのみなもと)にして人間は神より出(い)でたる光なり。光の無き光源はなく、光源の無き光はなし。光と光源とは一体なるが如く人間と神とは一体なり。》の辺りでの気付きでした。観世音菩薩が「相手は肉体ではないよ、光体(生命)なんだよ」と、教えて下さったのだと思います。

〈17-2-4 「現象の相手の姿がその人である」という認識の間違い〉
 これらの感覚が何を意味しているかと申しますと、実は今まで「自分自身が肉眼の眼を通して見ていた感覚が全て間違いであった」ということを、教えてくれた訳であります。自分の肉体の眼(まなこ)が、相手の肉体人間を見て、「その姿がその人である」と漠然とそう信じていたことが、とんでもない間違いであった、という事を改めて教えられたのです。

〈17-2-5 「真の姿(実相)を実相眼で観続けよ」との神からの絶対指令〉
 この時の感覚と気付きを、決して忘れてはならないのです。今までは、現象(森羅万象)を見ては、漠然と「物質的存在」と感じていて、別段違和感を感じていなかったのでありますが、それは全くの間違いであったのです。「本来無いところの物質」を漠然と「有る」と思っていたに過ぎなかったのです。

 『これからは今までの様にではなく、肉眼の眼を通して見えていた姿の奥に、観世音菩薩であり、神であり、霊的実在である処の「万物の実相(霊的実在)」を、自分の実相の眼を使ってしっかりと観よ』との神からの命令であったのでしよう。肉体を使って生活しておりますと、ついつい「本来無い処の物質や肉体や現象の姿」を見て、「現象が有る」と無批判に受け入れてしまっていたのです。これは立派な「迷い」でありました。この「迷い」からもそろそろ卒業したいものであります。


17-3) 聖経読誦する時の誦み手の心構え

〈17-3-1 誦(よ)み手の心構えを間違えると、間違った聖経読誦になる〉
 『人生を支配する先祖供養』(谷口雅春先生著)に《迷っている霊はひとりも無い》という言葉があります。聖経『甘露の法雨』を、祖先霊や病人や第三者に対して誦(あ)げることは頻繁にある事ですが、誦(よ)む者の心構えを間違えると、間違った先祖供養となり、間違った聖経読誦になる可能性のあることが指摘されているのであります。

 聖経には真理の言葉が満載されていますので、聖経を誦む事は実に素晴らしいことであり、宇宙を浄めることになるのですが、誦み手の心がどのような心境であるかによって、聖経の真理の言葉の功徳とは別に、その人自身の心境をも現象世界には反映せられるのでありますから、功徳が相殺(そうさい)されることもあるということを意味しています。その部分を引用させて頂きます。

〈17-3-2 祖先の霊魂自身よりも、その人自身が迷っている〉
 《「あんたの祖先が迷っているから、祖先の霊を十代まで遡(さかのぼ)ってその名前を知り、それをいちいち祀って聖経を誦げなければ、この病気は治らない」などと教えられて、その通りにして病気が治る場合もある。しかしそんな事をしても治らない時もある。それは直系の後継者---謂わば代々の〝戸主〟又は〝世帯主〟の霊だけなら十代遡って祖先を祀って、十人だけ祀ればよい訳だが、迷っているのは、そんな直系の戸主に当るような立派な位置にあった人の霊魂よりも、誰もかまってくれなかったような傍系の忘れられた人々の霊魂の方に多いのである。しかしそのような名もない傍系の親族縁族の名を探し出して一人一人それを祀るということに若しすれば、それは大変な数になって、何万何千の位牌をつくって祀っても尚、及ばないとすると、更に、色々の霊魂を探しだそうとして、心がそれに引っかかって、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなる---こうなると、祖先の霊魂自身よりも、その人自身が迷っているのである。「莫妄想(まくもうぞう)!!」と一喝するほかはない訳だ。》(『新版 人生を支配する先祖供養』谷口雅春先生著、68頁より)

〈17-3-3 自分自身が変らぬ限り、環境(世界)は変らない〉
 「祖先の霊魂自身よりも、その人自身が迷っているのである。」迷い有りと見ている者に対しては、尊師は手厳しい指摘をされ、「莫妄想!!」の一喝を与えておられます。「莫妄想」とは「妄想することなかれ!」という禅語で、「妄想を投げ捨てて真理を悟れ!」という意味であります。「見られる環境は見る人の心の影」であります。「自分自身が変らぬ限り、環境(世界)は変らない」のであります。この真理はどこまで行っても譲れないのであります。これを認めぬ限り、永遠に問題は繰返されることになりましょう。続けて次の様に書かれています。

〈17-3-4 一人出家すれば九族天に生まる=迷っている霊はひとりも無い〉
 《仏典には「一人(いちにん)出家すれば九族天に生まる」という聖句がある。九族とは高祖・曽祖・祖父・父・自己・子・孫・曽孫・玄孫の各九代にわたる親族のことである。「九族が天に生まれて」天人歓喜常楽の生活を営ましめるためには、九族の名前をいちいち呼び出して祀るということが必ずしも必要ではないのである。自分自身が出家することが必要である。〝出家する〟とは必ずしも、家を出て僧侶の修行をすることではないのである。真理を悟って、俗世間に生活しながらでも、維摩居士(ゆいまこじ)のように自由を得るということである。俗世に処しながら、その俗世の生活が真理によって超出した境地で、「菩薩心浄ければ仏土浄し」の浄き世界に住み得ることである。自分ひとりがそのような悟境に入れば九族悉く天界に生まれるのであるから、「迷っている霊はひとりも無い」ということになるのである。「あの霊が迷っているのではないか」と〝迷い〟に引っかかるより先に自分が迷っていないようになることが大切である。》(『新版 人生を支配する先祖供養』谷口雅春先生著、69頁より)


17-4) 神様に対する〝横領罪〟

〈17-4-1 聖経を誦む時も「実相」の境地で読誦することが極めて大切〉
 何と言っても、生長の家の根本は「実相独在」であります。例え現象の不完全が見えましょうとも、「現象無し」と否定し、自分の目の前に現れた「不完全」の意味と教訓を受け止め、感謝した上で、それに対するところの「実相」をさらに観る生き方であります。先祖や誰かに対して聖経を誦(よ)む時も同じでありまして、「実相」の境地で読誦することが極めて大切になるということであります。「自身の実相」が、「祖先の実相」に対して、又は「相手の実相」に対して、聖経を読誦するのであります。

〈17-4-2 神の「守護と導き」に対して、感謝の気持ちで聖経を誦げる〉
 さらに申しますと、霊界の全ての霊魂も、地上に生活する全ての神の子達も、「神」が完璧に生かし導いているのでありますから、その「絶対なる神」からの「間断無き守護と導き」に対して、「絶対感謝の御礼の気持ち」で聖経を誦げるのが、本来の筋というものでありましょう。

〈17-4-3 神様に対する〝横領罪〟の罪(迷い)〉
 そのことを忘れるとどうなるのでしょうか。「絶対なる導き手の神」の存在を無視することになりかねず、「実相」から遠ざかることになるのであります。「絶対者なる神の存在を忘れる」ということは、いつの間にか、「自力で生きている」という勝手な思い込みに、掏(す)り替わっていくことになるのであります。本来全ての存在は「神」から出ているのであり、その根本を忘れて、「自分の力で生きている」と思うということは、「神様に対する〝横領罪〟の罪(迷い)」を犯したことになるのです。

〈17-4-4 「自分の力で生きている」との思いが、全ての勘違いと罪の根本〉
 これが全ての霊的罪の最も根本的な「罪(迷い)」であります。この世界には、本来「神」しか存在しないのでありますが、その神から生まれ出た処の人間が、本源の神を無視して、「自分の力で生きている」と思い込む事が、全ての勘違い(罪)の元(もと)であるのです。この「罪(迷い)」が全ての問題の原因となるのです。

〈17-4-5 「唯物論」も「自分が生きている」と思う事も〝横領罪〟である〉
 「唯物論」にしてもそうでありまして、本来「神」から現れた現象世界の事物を、「神の現れ」として拝むのではなく、「物質が根本的存在である」と勘違いしている処に、「本末転倒」があり、「神様に対する〝横領罪〟の罪(迷い)」があるのであります。この「唯物論」は、最も顕著な「神様に対する〝横領罪〟の罪(迷い)」でありますが、信仰を持っている人であっても、なんとなく「自分が生きている」と思っていること自体が、「神に対する〝横領罪〟の罪(迷い)」であると言えるのであります。


17-5) 一切を神にお還しし、お任せし、完璧な守護と導きに感謝する生活 

〈17-5-1 「自分が生きている」「自分の力が動かしている」という錯誤観念〉
 一切を神にお還しし、お任せし、完璧な守護と導きに感謝する生活が、生長の家の生き方だと思います。「自分が生きている」「自分の力が動かしている」という観念が、混じっておりますと、自然と「神」から自分の心が離れているのでありますから、徹底的に「神が生きておられる」「神の力が動かしておられる」ということを、意識する生き方をさせて頂きたいものです。

〈17-5-2 神様に話しかけ、全てをお還しする〉
 聖経を誦む時も、祈る時も、食事や買い物や実生活をしている時も、歩く時も・・・・、生きている全ての生活を「自分名義」から「神様名義」にお返しせねばならないのです。無意識の内に「神に対する〝横領罪〟の罪(迷い)」を犯していた事に対して、神様にだけしか聞こえない小声で、「申し訳ありませんでした」とお詫びして、「今日からは全部お還し致します」「後はよろしくお願いします」と、神様に話しかけてみるのは如何でしょう。きっと神様は快く「おぉ、帰って来てくれたんだね」「お帰り、待っていたよ」「後の事は全部私に任せなさい!」と温かく包容して下さることでしょう。

〈17-5-3 観世音菩薩が今此処に出御せられて、「聖経」を鳴り響かせておられる〉
 このように本当の生き方とは、「神様にお返しする」生き方でありますから、「聖経」を御先祖や誰かに読誦するに当っても、これと同じことをせねばならないのであります。「聖経」を誦む時、肉体の自分が誦んでいるように見えていますが、実は神様が鳴り響かせておられるのであります。「聖経」は観世音菩薩が書かれたものでありますので、観世音菩薩が今此処に出御(しゅつぎょ)せられて、「聖経」を鳴り響かせておられるのであります。

〈17-5-4 「今吾来たりて、一切の神の子達を完璧に生かし、守護し、導いている、安心せよ!」〉
 つまり「聖経」を読誦しようとする時、観世音菩薩が自分自身と周囲の人々、及び霊界の諸霊に対して、「今、吾来たりて、一切の神の子達を完璧に生かし、守護し、導いているのだから、安心せよ!」と仰せになっておられるのであります。

〈17-5-5 御祖神の完璧な守護と導きに、感謝しながら生活する〉
 このように聖経を誦げる時には、現象の相手に対して、自分が直接「聖経」を誦げるのではなく、一切の生きとし生ける者を生かし給える「御祖神(みおやがみ)」が完璧に生かし、守護し、導いておられる事実に感謝しながら、「聖経」を誦げる事が大切と思うのであります。これは聖経読誦だけでなく、「祈り」も又同じであります。人間の生活全般、一挙手一投足がそうでありたいものと思っています。

〈17-5-6 〝聖なる道具〟聖経を誦んで、真理の波動を鳴り響かせましょう〉
 なにはともあれ、生長の家の聖経『甘露の法雨』は偉大なお経であります。観世音菩薩が、宇宙浄化、人類救済、国家救済の為に天降し給うたのが、この聖経『甘露の法雨』であります。「霊の戦士」たる生長の家人が、この〝聖なる道具〟〝聖なる武器〟である聖経を読誦することは、観世音菩薩(住吉大神)の宇宙浄化、人類救済、国家救済の御働きを、人間側からお助け申上げることになると信じています。一回でも多く、聖経を読誦しようではありませんか。その都度、この宇宙に「観世音菩薩の真理の波動」が鳴り響く事となるでしょう。


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【まとめ】17/聖なる道具「聖経」を誦(よ)むと、観世音菩薩の波動が鳴り響

17-1) 「聖経」を誦(よ)むと天地一切が浄化する
〈17-1-1 自分は悟っていなくとも、聖経を誦むだけで先祖が悟られる〉
〈17-1-2 生長の家の聖経は観世音菩薩の波動であるから浄化される〉
〈17-1-3 『甘露の法雨』を持って反乱青年将校を鎮めた田中静壹大将〉
〈17-1-4 米国ハワイの日系移民部隊の活躍と日本無償援助〉
〈17-1-5 國体護持、地上天国実現を願って聖経を誦むことは極めて重要〉
〈17-1-6 現象世界を整えるには、先ず霊界を浄めるべし〉
〈17-1-7 観世音菩薩が「霊の戦士達」に授けた「聖なる武器」〉
〈17-1-8 霊界の諸霊は「物質無し」の真理を悟り易い〉
〈17-1-9 霊界の諸霊が真理を悟ると霊界が浄まり、人間の悟りが早まる〉
〈17-1-10 誰にも知られない聖経読誦は、御心に適った偉大な行為〉

17-2) 「真の姿(実相)を実相眼で観(み)続けよ」との神からの絶対指令
〈17-2-1 宇宙に遍満せる観世音菩薩が、聖経を鳴り響かせている〉
〈17-2-2 相手の現象の姿がユラユラと消え去って「光」のイメージに〉
〈17-2-3 神は人間の光源にして人間は神より出でたる光なり〉
〈17-2-4 「現象の相手の姿がその人である」という認識の間違い〉
〈17-2-5 「真の姿(実相)を実相眼で観続けよ」との神からの絶対指令〉

17-3) 聖経読誦する時の誦み手の心構え
〈17-3-1 誦(よ)み手の心構えを間違えると、間違った聖経読誦になる〉
〈17-3-2 祖先の霊魂自身よりも、その人自身が迷っている〉
〈17-3-3 自分自身が変らぬ限り、環境(世界)は変らない〉
〈17-3-4 一人出家すれば九族天に生まる=迷っている霊はひとりも無い〉

17-4) 神様に対する〝横領罪〟
〈17-4-1 聖経を誦む時も「実相」の境地で読誦することが極めて大切〉
〈17-4-2 神の「守護と導き」に対して、感謝の気持ちで聖経を誦げる〉
〈17-4-3 神様に対する〝横領罪〟の罪(迷い)〉
〈17-4-4 「自分の力で生きている」との思いが、全ての勘違いと罪の根本〉
〈17-4-5 「唯物論」も「自分が生きている」と思う事も〝横領罪〟である〉

17-5) 一切を神にお還しし、お任せし、完璧な守護と導きに感謝する生活 
〈17-5-1 「自分が生きている」「自分の力が動かしている」という錯誤観念〉
〈17-5-2 神様に話しかけ、全てをお還しする〉
〈17-5-3 観世音菩薩が今此処に出御せられて、「聖経」を鳴り響かせておられる〉
〈17-5-4 「今吾来たりて、一切の神の子達を完璧に生かし、守護し、導いている、安心せよ!」〉
〈17-5-5 御祖神の完璧な守護と導きに、感謝しながら生活する〉
〈17-5-6 〝聖なる道具〟聖経を誦んで、真理の波動を鳴り響かせましょう〉
                      (以上)

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